庶民院議員に当選、最初の野党時代
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「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「庶民院議員に当選、最初の野党時代」の解説
1885年に発足した自由党政権の第3次ウィリアム・グラッドストン内閣はアイルランド自治法案を議会に提出したが、ジョゼフ・チェンバレンらが自由党を割って反対票を投じた結果、法案は否決された。これを受けてグラッドストンは1886年7月に解散総選挙(英語版)に打って出た。 この選挙でアスキスはイースト・ファイフ選挙区(英語版)から自由党候補として出馬した。この選挙区はこれまで出馬していた自由党候補がチェンバレンとともに自由党を離党したため、自由党の候補が空きになっていた選挙区だった。自由党の地盤の選挙区であり、グラッドストン支持を訴えるアスキスが当選を果たした(ただし総選挙全体の結果は自由党の敗北であり、第3次グラッドストン内閣は退陣することになった)。 保守党政権下の1887年3月24日に処女演説(英語版)を行い、アイルランド担当大臣アーサー・バルフォアが制定したアイルランド強圧法に反対する演説を行った。自由統一党のジョゼフ・チェンバレンはアスキスの処女演説を褒めている。 自由党内ではローズベリー伯爵、エドワード・グレイ、リチャード・ホールデン(英語版)らとともに「自由帝国主義」派の派閥に属していた。 アスキスが名をあげたのは、1889年にアイルランド国民党(英語版)党首パーネルがアイルランド担当相フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺に関与したことを示唆する『タイムズ』紙の記事が捏造であることを証明したことだった。アスキスはパーネルから依頼を受けてこの件の調査にあたった。記事を書いた者は追及を苦にして自殺してしまったが、アスキスは諦めることなく、『タイムズ』紙支配人を追及し、とうとう『タイムズ』紙がたいした調査もせずにこの捏造記事を載せたことを証明した。これによりパーネル人気は絶大なものになり、アスキスの知名度も高まったのである。 この件がきっかけとなり、アスキスの弁護士としての仕事も急激に増え、1890年春には勅選弁護士(英語版)に勅任されるほどイギリス有数の弁護士となっていた。
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