広島電気への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
広島電灯は、後発の電力会社広島呉電力(1911年以前は広島水力電気)と長年対立関係にあった。前述の通り、広島電灯は16燭光終夜灯3000灯分を広島水力電気から受電する契約を1900年に締結していたが、その供給料金をめぐる対立が両社間の紛争の発端となった。この紛争は、広島水力電気が求める料金値上げを広島電灯が拒否したために発生したもので、広島水力電気側の提訴で1906年8月より訴訟に発展、大審院にまで持ち込まれ1909年4月になって広島水力電気が求める料金よりも低い水準で料金確定に至った。 その間、両社間の協定を無視して広島水力電気が広島市内で電灯供給を行っているとして、1908年2月広島電灯側が提訴した。これは控訴審にて広島水力電気は21軒に対する電灯供給を禁ずる、という判決が出たものの、その後も両社間の紛争は続いた。1912年になり、広島電灯が亀山発電所の完成を機に広島呉電力の地盤である呉市方面への供給を計画するが、ここに至り両社間の妥協が成立。1912年12月に新たな協定書が締結され、両社は訴訟をすべて取り下げた。以後、両社は限られた地域での競争を避け、設備の充実と周辺事業者統合による供給区域拡大に傾注するようになる。その結果広島県下はおおむね広島電灯ないし広島呉電力の供給区域となったが、今度は送電設備の交錯という問題が発生するようになった。 広島電灯と広島呉電力の合併計画は浮上するたびに立ち消えとなっていたが、1920年に発生した戦後恐慌により分立状態の悪影響が顕在化したことで、両社の合併が現実のものとなった。元広島電灯主任技術者で当時川北電気企業社取締役であった高桑確一が1920年末から合併斡旋に努めたという。翌1921年(大正10年)3月3日合併契約締結、5日両社の株主総会で契約が可決され、両社の合併が正式決定をみた。合併条件は、両社の新設合併により新会社を設立する、株式の交換比率については広島電灯の場合持株1株につき新会社の株式2株とする、というものであった。 5か月後の1921年8月12日、新会社の創立総会が開かれ、資本金2500万円の新会社・広島電気株式会社が発足した。競合会社の合併のため新会社経営陣の選出が難航し、1920年10月に高束康一の後任として広島電灯第6代社長となっていた木村静幽を含む取締役・監査役全員はそのまま留任したものの、広島電気初代社長は広島呉電力有力株主渋沢栄一の指名で広島呉電力側から松本清助が就任。広島電灯側からは川北栄夫が副社長に推されたに留まった。 こうして発足した広島電気は、引き続き周辺事業者を合併し山陰地方にも進出するなど事業を拡大し、1942年(昭和17年)に戦時下の配電統制で中国電力の前身中国配電へと統合されるまで、中国地方最大の電力会社として活動することになる。
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