幼少のローマ王
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「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「幼少のローマ王」の解説
ハインリヒ4世は1050年、ローマ皇帝ハインリヒ3世を父に、母アグネスとの間の長男としてゴスラーで生まれた。通常洗礼は生後すぐ受けるものだが、クリュニー修道院のユーグを代父に迎えるために翌年の春の復活祭まで洗礼が延期された。洗礼を受ける前であったが、父はハインリヒを後継者として扱い、クリスマスには宮廷に集まった諸侯に服従を求めている。 1053年には父はまだ幼い息子を後継者として認可する帝国会議を行い、1054年7月17日にはケルン大司教ヘルマンの手によって王冠を授けられた。このように正式な後継者としての手続きがおこなわれていたため、父が1056年に急死した時には特に問題もなく後継者としての地位につくことができたが、実際には母后アグネスが摂政として統治していた。1055年クリスマスにはサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタとチューリヒで婚約した。 1062年の復活祭の後、ハインリヒ4世はケルン大司教アンノ2世とバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムに率いられた豪族達の手で誘拐されてしまう。小船に乗せられたハインリヒ4世はライン川に飛び込んで逃げようとするが、陰謀者の1人に救助されてしまい、ケルンに連れてゆかれてしまう。母アグネスは一時的に引退を余儀なくされ、政府はアンノの手に握られることになった。アンノはアグネスの支援無しでは教皇としての地位を維持できない対立教皇ホノリウス2世に対抗する教皇アレクサンデル2世を支援した。 ハインリヒ4世の育成はアンノの手で行われたが、アンノの権力独占は続かず、直ぐにマインツ大司教ジークフリートやハンブルク・ブレーメン大司教アーダルベルトと共有することになった。アーダルベルトはハインリヒ4世の保護者的な存在だったが、ハインリヒ4世の教育は放置され、彼のわがままで頑固な性格はこの時期に形成された。従順なアーダルベルトはハインリヒ4世の腹心となった。1064年に教皇アレクサンデル2世の正当性を宣告しにイタリアのマントヴァに行っている間にアーダルベルトに権力を奪われたが、1066年にアーダルベルトは追放された。このことによりアンノは影響力を取り戻したが、1065年3月29日に成年に達し親政を始めたハインリヒ4世はアンノの影響力を聖界だけに留め、俗界での支配権を強化していった。
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