幼少のローマ王とは? わかりやすく解説

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幼少のローマ王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:29 UTC 版)

ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「幼少のローマ王」の解説

ハインリヒ4世1050年ローマ皇帝ハインリヒ3世を父に、母アグネスとの間の長男としてゴスラー生まれた通常洗礼生後すぐ受けるものだが、クリュニー修道院ユーグ代父迎えるために翌年の春の復活祭まで洗礼延期された。洗礼を受ける前であったが、父はハインリヒ後継者として扱いクリスマスには宮廷集まった諸侯服従求めている。 1053年には父はまだ幼い息子後継者として認可する帝国会議行い1054年7月17日にはケルン大司教ヘルマンの手によって王冠授けられた。このように正式な後継者としての手続きおこなわれていたため、父が1056年急死した時には特に問題もなく後継者としての地位につくことができたが、実際に母后アグネス摂政として統治していた。1055年クリスマスにはサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタチューリヒ婚約した1062年復活祭の後、ハインリヒ4世ケルン大司教アンノ2世バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイム率いられ豪族の手誘拐されてしまう。小船乗せられハインリヒ4世ライン川飛び込んで逃げようとするが、陰謀者の1人救助されてしまい、ケルンに連れてゆかれてしまう。母アグネス一時的に引退余儀なくされ、政府アンノの手握られることになったアンノアグネス支援無しでは教皇として地位維持できない対立教皇ホノリウス2世対抗する教皇アレクサンデル2世支援したハインリヒ4世育成アンノの手行われたが、アンノ権力独占続かず直ぐにマインツ大司教ジークフリートやハンブルク・ブレーメン大司教アーダルベルト共有することになったアーダルベルトハインリヒ4世保護者的な存在だったが、ハインリヒ4世教育放置され彼のわがままで頑固な性格はこの時期形成された。従順なアーダルベルトハインリヒ4世腹心となった1064年教皇アレクサンデル2世正当性宣告しイタリアマントヴァ行っている間にアーダルベルト権力奪われたが、1066年アーダルベルト追放された。このことによりアンノ影響力取り戻したが、1065年3月29日成年達し親政始めたハインリヒ4世アンノ影響力を聖界だけに留め俗界での支配権強化していった。

※この「幼少のローマ王」の解説は、「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「幼少のローマ王」を含む「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。

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