幕府・明治政府官僚としてとは? わかりやすく解説

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幕府・明治政府官僚として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 07:41 UTC 版)

鈴木重嶺」の記事における「幕府・明治政府官僚として」の解説

中川忠英家臣小幡多門有則の次男として江戸駿河台生まれ鈴木家10代鈴木重親(半治郎)の養子となった天保2年1831年)に養父没する家督継ぎ小普請入りする。天保4年1833年)、将軍徳川家慶御台所付の広敷伊賀者となる。 天保12年1841年8月25日広敷取締係より、江戸城武術見分の際に「つるぎだち鞘にをさめし世になれて みがかぬわざのはづかしきかな」の歌を詠み鼻紙一首歌をしたためて、柔術師匠の悴で剣術師匠である窪田清音に渡す。清音がこの歌を見て松平内匠頭出したところ、その歌を短冊したため差し出すようにと命が出る。これが老中水野忠邦の目に留まり同年10月徒目付栄進し、市谷加賀現在の新宿区市ヶ谷加賀町)に150坪の屋敷拝領した天保14年1843年勘定吟味役改役並に一時なるが、再び徒目付となり、再び天保15年1844年)には勘定組頭となったその後勘定吟味役経て元治元年1864年7月2日勘定奉行となるが、わずか20日余りで同23日槍奉行となり、慶応元年1865年9月13日最後佐渡奉行となり、諸大夫に任ぜられ兵庫頭称する慶応4年1868年)閏4月16日御役御免となったのち、田安徳川家家老となり、新政府との交渉役となった。 翌明治2年1869年)に新政府開拓主典となり、明治4年1871年浜松県参事となり、同年12月8日に再び佐渡渡り相川県参事となり、明治6年1873年従六位叙任された。明治8年1875年相川県六等判事兼任し同年権令昇進し正六位叙任された。翌年4月廃県により職を辞し同年息子の重明に家督譲った。また従五位叙任された。 その後晩年明治24年1891年2月23日東京帝国大学旧事諮問会の要請応じ幕府財政勘定所について詳細な証言をしている。

※この「幕府・明治政府官僚として」の解説は、「鈴木重嶺」の解説の一部です。
「幕府・明治政府官僚として」を含む「鈴木重嶺」の記事については、「鈴木重嶺」の概要を参照ください。

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