帰国、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 13:18 UTC 版)
「アレクサンドル・クプリーン」の記事における「帰国、そして死」の解説
1930年、クプリーン一家は貧困そして借金を抱えていた。文筆の報酬では不十分であり、何年ものパリ在住、彼に過度の飲酒が付きまとっていた、1932年以降、彼の視界は劣化し始め、筆蹟を悪くした。妻は製本屋や亡命者の貸本屋の開業を試みるも金銭面で損失を被った。ソビエト連邦への帰国はクプリーンの現状や精神的な苦しみの唯一の解決策だった。1936年後半、最終的にビザ申請することを決めた。 1937年5月29日に1人娘に見送られながらクプリーンはパリ北駅を発ちモスクワ北駅へと向かった。 5月31日にクプリーンはモスクワに到着し、メトロポールホテルにて作家同盟代表者と会った。モスクワ市外のゴリツィノでソビエト連邦作家同盟が所有するダーチャに移り、6月上旬にクプリーンは医者の治療を受け、冬まで休養をとった。12月中旬に彼と妻はレニングラードのアパートに引っ越した。 パリ時代の彼は健康を害し、老体へと変貌していた。悲劇的な変貌ぶりを1900年代始めからの友人である作家ニコライ・テレショフは気づいた。ニコライ・テレショフの到着後まもなくクプリーンを訪れ、テレショフはクプリーンが錯乱し、まとまりの無い、そしてその痛々しさを見た。 のちにニコライ・テレショフはこう書いている「彼は身体的に大いに壮健にして力強くロシアを発った... しかし、異常なほどやせ衰えて. ... 薄弱な病人として帰国した。もはやこれはクプリーンでは無かった - あの優れた才能人 - それは... 衰弱し、惨憺にして、目に見えて死にかけていた」。 最終的にクプリーンは1937年5月31日にモスクワへ戻った。彼が死去する前の1年あまり大粛清の嵐は極致に達していた。クプリーンは帰国によってソ連国内で作品の出版を許されたが、実質的な新作を著していない。『イズベスチヤ』紙は1937年6月にゴーリキー死去一周年を記念して、クプリーンの"Fragments of Memoirs"を刊行した。 10月に"My Native Moscow"を著した。クプリーンの周りで起こっていたことへの作家達の一般的な反応は全く幸福感からほど遠かった。クプリーン最後の数ヶ月について、娘リディア・ノールは母国で余所者だと感じて幻滅した老人の絵を描いている。 1938年1月にさらなる健康の悪化をもたらした。7月までの健康状態は深刻だった。すでに腎臓障害や多発性硬化症に苦しみ、そして、食道癌を発症。手術はほとんど効果が無かった。アレクサンドル・クプリーンは1938年8月25日に亡くなり、2日後、レニングラードのヴォルコヴォ墓地内にあるリテラトルスキー・モーストキンで作家仲間達の近くに埋葬された。
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