巴蜀へ避難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)
李氏は略陽郡に割拠する巴氐族の有力者の家系であり、当時西晋に従属していた。その為、李特もまた若い頃より州郡に仕えていた。 296年、氐族の斉万年が晋朝に大規模な反乱を起こし、関中一帯は動乱に陥った。さらに連年に渡って飢饉が続くようになり、民百姓の暮らしは大いに困窮した。 298年末、略陽・天水を初め秦州6郡の民は食糧を求めて南へ移動を開始し、数万家の流民が漢川に入った。李特もまた兄弟と共にこの集団の中にあった。途中、病気や飢餓に苦しむ者が数多くいたが、李特兄弟はよくこれを援助してその者たちを保護した為、大いに人望を得た。 流民は漢中へ辿り着いた後、さらに巴・蜀の地へ移って食糧を恵んでもらうよう請願したが、朝廷はこれを認めなかった。さらには侍御史李苾を派遣して表向きは流民を慰労すると称しながら、実際には剣閣へ入らないよう監視させた。だが、漢中へ入った李苾は流民から賄賂を貰ったので「流民は10万人余りおり、漢中一郡では救済できません。東の荊州へ下ろうとしても、水の流れが急な上に舟がありません。蜀には食糧の備蓄が十分あり、人々は豊かな暮らしをしております。どうか(流民を)食に有り付かせてくださいますように」と上表した。朝廷はこの要請に応じ、流民が益州・梁州の地へ移ることを禁じなくなった。こうして李特らは益州へ入る事が出来た。
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