川通御用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 09:30 UTC 版)
美濃衆は17世紀前半の寛永年間から江戸幕府滅亡まで、木曽・長良・揖斐の三大河川地域における幕府の「川通御用」を勤め、治水のための新規・修復の工事の国役普請や御手伝普請に際して普請奉行または普請見廻役として工事を監督する一方、同地で発生した水争いや境界争いなど各種村方争議における論所見分を行って意見書・報告書を評定所へ提出した。また、宝永2年(1705年)からは流域川通りの定期巡検を実施して河道維持に努めることとなり、権力の一翼を担った。 木曽三川流域の治水事業には他に笠松に陣屋を置く美濃郡代(笠松役所)も担当しており、幕府支配の高木家と、勘定奉行支配の美濃郡代ではスタンスが異なった。美濃郡代は笠松陣屋に居を構え、天領支配を行う地方役所と治水担当の堤方役所を指揮した。川通御用を命じられた高木家では川通役人を設置し、堤方役人と共に治水事業にあたった。このため高木家は宝暦治水の監督も担当した。
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