川崎城の規模について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 15:14 UTC 版)
「川崎城 (下野国)」の記事における「川崎城の規模について」の解説
川崎城は、南北約1km、東西約200mの南北に長い城で、主郭周辺は蝸牛城と呼ばれる構造になっている。主郭はその南端にあり、時代を経て北へと城郭が拡大し、主郭の北側に水の手曲輪、さらに北に新城と呼ばれる独立した城郭構造があり、一城別郭を成している。その新城の北側の尾根続きの山は的場山と呼ばれ、射的場になっていたと考えられ、ここも川崎城の城域であったと考えられている。 主郭より南方の尾根続きには尾根上に堀切が存在し、さらに南、主郭より南方約500mのところには堀江山城が存在するが、これを川崎城の一部として、城の規模を南北1.5kmとする見方もある。ただし、堀江山城と川崎城ではその成り立ちの歴史が違う上に、堀江山城の城代が別に任命されていた史実を考慮すると、別の城として、分けて捉えるのが自然である。また、堀江山城よりさらに南東500mほどのところに滝原台というところがあり、ここにも城郭遺構(境林城)が残るが、ここも川崎城の一部であったと見てよい。 さらに、川崎城より東約1kmのところに塩谷氏の氏神として信仰された木幡神社があるが、この背後の丘上には前方後円墳上の遺構がある。これを古墳とする見方もあるが、「栃木県の中世城郭」などを執筆した藤本正行によれば出丸として利用された可能性があり、ここも川崎城の一部であるとする見解が存在する。また、川崎城の北には、尾根続きの場所に幸岡城があり、これも川崎城の一部として機能していたものとする見解も存在する。 以上のように、川崎城の規模については様々な見解がある。
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