山県大弐「抹殺」問題
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1935年(昭和10年)4月から使用が開始された第四期国定教科書『尋常小学国史 下巻』において山県大弐と尊王論に関する記述が削除され、これを地元の三井甲之が同年6月3日付『山梨日日新聞』(以下『山日』)において告発した。三井の告発に端を発し、山梨県の政治家や教育関係者、郷土史家などが教科書における大弐の記述復活を求めて運動を起こした。 三井は『山日』紙上の告発において「抹殺」の表現を用いて文部省の処置を批判しており、以後記述復活を求める運動や新聞報道などにおいて「抹殺」の表現が多用された。また、三井は1911年(明治44年)1月から3月にかけて起きた、大弐「抹殺」問題と同様に教科書の記述を巡る騒動である南北朝正閏問題にも言及しているほか、「国体明徴」の表現も用いており、時局の影響が見られる。 三井の告発を受けて、県内外では諸団体の結成や大弐に関する文献の刊行、論考の発表が相次いで行われた。山梨県教育会は1935年(昭和10年)6月14日に教育関係者や郷土史家など23名を委員とする改正国史教科書調査委員会を設置し、文部大臣に対する上申書の作製や文部省へ対する質問書の送付を行った。同年8月31日には文部省から県知事宛に質問書に対する回答が送付されたが、教科書本文への記述復活は確約されなかったため運動は継続した。翌1936年(昭和11年)6月14日には明倫会及び山県神社が中心となり山県大弐顕彰同盟会が組織され、名取忠愛が会長となった。同会は大弐の事績を教授することが「国体明徴」に直結するという論理を展開し、中央に向けて運動を行った。また、中央においても、「抹殺」問題以前から存在していた在京山梨県人による山県大弐先生遺徳顕彰会が問題を受けて運動を開始した。 問題の告発を行った三井は、『山日』紙上に告発文が掲載された1935年(昭和10年)6月3日に文部省図書局編修課長藤岡継平と面会している。藤岡は難易度の問題や、尋常小学校では日本史の総論を教授するため人物中心で、高等小学校では各論を教授するため事件中心で取り上げる文部省の教科書編纂方針を説明し、三井はこれに対し尋常小学校では学派体系よりも個人の思想・行動に重点を置いた教育を行うべきと反論している。 同年7月には郷土史家で大弐研究も行っていた村松志孝が知人の東京高等師範学校(現在の筑波大学)教授橋下重次郎を通じて文部省の意向を打診し、文部省図書局長芝田徹心は藤岡と同様の説明を行い、年表における記述は編纂官と相談する旨を回答した。さらに同年7月8日には和田貞臣山梨県学務部長が文部省を訪問し、芝田図書局長に面接し大弐復活について山梨県内の情勢を述べ、復活を要求した。 国定教科書における山県大弐の記述を復活させることが決定した時期は明らかではないが、1941年(昭和16年)3月31日発行の第五期国定教科書『小学国史尋常科用 下巻』において記述が復活した。 なお、大弐とともに記述が削除された竹内式部の出身地新潟県においても運動が発生している。
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