小選挙区導入、3選
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1994年8月11日、衆議院議員選挙区画定審議会は、政治改革四法における「小選挙区300・比例代表200」の具体的な区割り案を村山富市首相に勧告。旧愛知4区のうち、岡崎市は西尾市、旧幡豆郡、額田郡とともに愛知12区を構成することとなった。翌8月12日には選挙区ごとの候補予定者の動向が愛知県の地元紙によって報じられた。 現職の稲垣実男と前職の杉浦はともに愛知12区からの立候補を希望。1995年7月10日、自民党愛知県連は稲垣、杉浦の両者を愛知12区の公認候補として党本部に推薦し、いずれかを比例区に回すことを決定した。振り分けは党本部に一任されることとなった。あわせて党県連は、稲垣の地盤の一つである愛知13区について、農林水産省職員の大村秀章の公認申請を党本部に行った。同年11月24日、稲垣と杉浦は党本部で白川勝彦総務局長を交えて会談。杉浦が小選挙区から出馬し、稲垣が比例東海ブロック単独に回ることで合意がなされた。 1996年10月の総選挙で新進党に移籍した川島實らを破り、返り咲く。稲垣も7回目の当選を果たした。 2000年4月、党内有志とともに議員連盟「道州制を実現する会」を設置。このとき立ち上げに参画した官僚の中に重徳和彦がいた。 同年6月25日、第42回総選挙が行われ4期目の当選。同年8月5日、総選挙で公明党、保守党との選挙協力に失敗した責任をとり、村田敬次郎が自民党愛知県連会長を辞任。9月1日、村田の後任として党県連会長に就任した。 総選挙直後の6月28日、岡崎市長の中根鎭夫が6選出馬の意向を明らかにした。杉浦は先の総選挙で連日中根の応援を受けており、この時点で自民系市議の大半は中根に推薦状を出していた。「5期でやめると言ったはずではないか」と反発を感じた青山秋男県議(自民党岡崎支部長)と柴田紘一県議(同党)は中根に直接会い「どなたか市長さんの推薦される方を出して下さい。私達は応援しますから」と説得にかかるが、中根は「各種団体から多くの出馬要請を受けている以上、今さらやめるわけにはいかない」とはねつけた。反中根陣営は経済界を巻き込んで6選阻止に向けて動き始める。さらに7月5日、河澄亨市議が市長選の推薦依頼を自民党に提出した。 杉浦は7月23日までに候補者一本化の調整を行うこととなっていた。しかし中根は、連合愛知三河中地域協議会と政策協定を結び推薦を受けたことを7月19日に発表。青山と柴田は7月21日、岡崎商工会議所会頭の大川博美ら財界関係者と協力して候補者擁立のための団体「新世紀の岡崎市政をつくる会」を発足させた。7月26日、同団体は全会一致で柴田の推薦を決め、杉浦も柴田支援を表明した。結局、自民党はいずれの候補者に対しても推薦を出さかなかったが、岡村秀夫をはじめとする保守系市議16人は7月31日に「自民党岡崎市議団」を結成して中根の支援に回り、内田康宏県議は前回の選挙につづいて中根の選対本部長に就任した。市長選は9月10日に行われ、柴田紘一が初当選を果たした。保守3分裂という異例の事態となったことに対し、「もっと早くから収めればこんなことにはならなかった」と杉浦の調整力不足を非難する声も上がった。 2001年4月14日、杉浦の発案による愛知政治大学院が開校。同大学院の学長に就任。 2003年11月の総選挙で5期目の当選。愛知県下の候補者がのきなみ敗北したため、自民党県連会長を引責辞任。 2005年9月の総選挙で6期目の当選。同年10月31日に発足した第3次小泉改造内閣で法務大臣を務めた。党内では清和政策研究会(安倍派→三塚派→森派→町村派)に属した。森派では小泉純一郎の側近中の側近といわれており、小泉の引退後は中川秀直の側近とされていた[要出典]。 2008年9月22日に行われた自民党総裁選では同じ派閥の小池百合子の選挙責任者を務めた。
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