小藩及び、幕府旗本の家老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:33 UTC 版)
1万石程度の小藩の家老は、家老連綿の家格の出身者の場合で、おおむね300石前後の蔵米取りの者が多かった。もっとも、田畑を給人地として与える割合の大きい藩では、家禄はさらに低く抑える例もあった。ここでいう給人地とは、地方知行制で云う給人地(=領地)を指すのではなく、家格に応じて支給される田畑のことである。 この制度を導入していた小藩では、家老などの上級層は家老であっても小身な者が多かったので、江戸時代後期に商品経済が浸透して物価高となると、その家臣(つまり陪臣)に農作業をさせて、中級層以下の藩士は自ら家族と共にこれに当たり、半ば農民化していた。 具体例として、恋川春町の名で戯作家として知られる小島藩(1万石)年寄本役の倉橋格の石高は、年寄本役就任で120石であり、同じく戯作家で久保田藩(20万5800石)の江戸留守居の平沢常富(朋誠堂喜三二として著名)の120石とほぼ同じであった。 幕府旗本の場合は、3,000石以上の大身旗本、家禄が約400石ながら徳川将軍家の本家筋に当たる交代寄合であった松平太郎左衛門の家系など特別な場合を除き、家老は置かれないのが通例である。おおむね500石以上、3,000石未満の旗本の場合は、家臣の最高位の職名は用人であった。家老を設置した将軍家の旗本はおよそ250家(2%未満)であり、その家老は80石から、多くても100石強程度であった。
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