小笠原長秀とは? わかりやすく解説

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おがさわら‐ながひで〔をがさはら‐〕【小笠原長秀】

読み方:おがさわらながひで

[?〜1424]室町中期武将信濃守護礼式騎射の法に通じ足利義満弓馬術師範となった義満の命により武家礼法定めた伝えられる


小笠原長秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 04:54 UTC 版)

 
小笠原長秀
時代 室町時代
生誕 貞治5年/正平21年9月18日1366年10月22日
死没 応永31年3月15日1424年4月14日
改名 豊若丸→長秀
別名 小笠原又次郎(通称)
官位 従四位下従四位上[1]兵庫助[1]信濃守[1]修理大夫[1]
幕府 室町幕府 信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長基[1]、母:畠山基国の娘
兄弟 長将、長秀政康[1]
養子:持長[1]
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小笠原 長秀(おがさわら ながひで)は、室町時代武将守護大名信濃守護[1]小笠原長基の次男。長将の弟、政康の兄。幼名は豊若丸。

初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従ってを攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。

応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401年)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405年)に弟政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。

応永31年(1424年筑摩郡で死去(『豊前豊津小笠原家譜』)。享年59。著書に「犬追物起源」がある。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 今井尭 1984, p. 273.

参考文献

  • 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373 
  • 『松本市史 第2巻 歴史編1』1996年



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