小泉又次郎
小泉又次郎
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小泉 又次郎(こいずみ またじろう、1865年6月10日〈慶応元年5月17日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月24日)は、日本の政治家。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。大衆政治家で、入れ墨があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さん」などの異名をとった。神奈川県平民[2]。
- ^ 『官報』第5749号、昭和21年3月15日。
- ^ a b c 『人事興信録. 7版』(1925年)こ二
- ^ 作家火野葦平著『青春の岐路』によると、「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」という。
- ^ a b c d e 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁
- ^ a b 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』29頁
- ^ a b 河瀬蘇北『現代之人物観無遠慮に申上候』121頁
- ^ a b c d 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』31頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』59頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』32頁
- ^ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。ただし、藤原肇は「“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話はつくり話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近い」と解釈している(『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁)。
- ^ 岩崎大輔『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁
- ^ a b 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』34頁
- ^ 記事
- ^ 河瀬蘇北『現代之人物観無遠慮に申上候』122頁
- ^ 1884年(明治17年)の記録では、自由党の280名に対して改進党は16名
- ^ 島田は立憲改進党の創設にも加わった言論人。尾崎行雄の盟友で、足尾鉱毒事件で田中正造と活動を共にして天皇への直訴状をつくった
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』38頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』39頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』43頁
- ^ 又次郎が衆議院副議長に選出された三日後、朝日新聞は一面に漫画家岡本一平(芸術家岡本太郎の父)が描く又次郎のコミカルな漫画を掲載している。ゴリラが背広を着たようなその絵はまさに「野人」を表現したものだった(梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』55頁)
- ^ a b c d e f g 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』56頁
- ^ a b c 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』57頁
- ^ a b 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』58頁
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、54頁。
- ^ 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』161頁
- ^ a b c d 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』40頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』45頁
- ^ a b c d e f g 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』47頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』53頁
- ^ a b c d e f 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』54頁
- ^ a b c d e f g 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』49頁
- ^ 睥睨(へいげい)とは、1.にらみつけて勢いを示すこと、2.横目でじろりとにらみつけること。
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』50頁
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』60頁には「これが本当かどうかはわからないが、これまでの政治家にはない「茶化し甲斐のある」大臣だったのだろう」とある
- ^ 猪野健治『侠客の条件 吉田磯吉伝』95-96頁
- ^ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』58-59頁
- ^ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』57頁
- ^ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』60頁
- ^ 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』153頁
- ^ 『官報』第779号「叙任及辞令」1929年8月3日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第977号「叙任及辞令」1930年4月5日。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録. 4版』(大正4年)こ二
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録. 9版』(1931年)コ四
- ^ 佐野眞一 『小泉政権 ― 非情の歳月』157-158頁
- ^ a b c d 『人事興信録. 第11版』(1937年)上コ六
- ^ a b 佐野眞一 『小泉政権 ― 非情の歳月』147頁
- ^ a b 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』148頁
- ^ 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』149頁
- ^ 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』150頁
- ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(1934年)コ七頁より
- ^ 梅田功『変革者 小泉家の3人の男たち』87頁
- ^ 佐野眞一『小泉政権 ― 非情の歳月』155-156頁
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