宇文部へ奔るとは? わかりやすく解説

宇文部へ奔る

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:33 UTC 版)

慕容翰」の記事における「宇文部へ奔る」の解説

338年1月後趙君主石虎総勢20大軍でもって段部征伐乗り出した3月慕容皝もまた後趙動き呼応し、自ら出撃して段部領域である令支以北諸城攻撃して回った段遼はこれを迎え撃とう考えたが、慕容翰は「今、趙の軍団南方迫っております全力挙げて防がなければならない時に、更に燕と戦うつもりですか。燕王自らが出向いた以上、率いるのは精鋭部隊でしょう万が一にも敗れたら、どうやって南敵(後趙軍)と戦おうというのですか!」と諫めた。側に控えていた段蘭はこれに怒って「我は以前、卿のせいで道を誤った今日災い招いたのはその為であろう。我は二度と卿の術中嵌る事はない!」と述べて慕容翰意見退けると、総力挙げて慕容皝攻めた。だが、慕容皝伏兵設けて段蘭待ち受けており、段蘭軍は大敗喫して数千の兵を失い五千世帯人民一万越え家畜略奪されてしまった。 その頃石虎もまた金台まで進軍しており、その配下である支雄段部領である漁陽上谷代郡相継いで降伏させ、四十超える城を陥落させた。段遼段蘭敗戦していた事もあり、もはや石虎一戦交えようとは考えず令支放棄して妻子親族及び豪族千戸余り率いて密雲山へ逃走図った。この時、段遼慕容翰の手取って涙を流して「卿(慕容翰)の進言用いず、自ら敗亡の道を選んでしまった。我はもとより自業自得だが、卿の寄る辺まで失う事になり、慙愧の念に堪えない」と謝罪したという。慕容翰はここで段遼と袂を分かち北へ逃走して宇文部亡命した

※この「宇文部へ奔る」の解説は、「慕容翰」の解説の一部です。
「宇文部へ奔る」を含む「慕容翰」の記事については、「慕容翰」の概要を参照ください。

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