宇文部へ奔る
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338年1月、後趙君主石虎が総勢20万の大軍でもって段部征伐に乗り出した。3月、慕容皝もまた後趙の動きに呼応し、自ら出撃して段部の領域である令支以北の諸城を攻撃して回った。段遼はこれを迎え撃とうと考えたが、慕容翰は「今、趙の軍団が南方に迫っております。全力を挙げて防がなければならない時に、更に燕と戦うつもりですか。燕王自らが出向いた以上、率いるのは精鋭部隊でしょう。万が一にも敗れたら、どうやって南敵(後趙軍)と戦おうというのですか!」と諫めた。側に控えていた段蘭はこれに怒って「我は以前、卿のせいで道を誤った。今日の災いを招いたのはその為であろう。我は二度と卿の術中に嵌る事はない!」と述べて慕容翰の意見を退けると、総力を挙げて慕容皝を攻めた。だが、慕容皝は伏兵を設けて段蘭を待ち受けており、段蘭軍は大敗を喫して数千の兵を失い、五千世帯の人民・一万を越える家畜が略奪されてしまった。 その頃、石虎もまた金台まで進軍しており、その配下である支雄は段部領である漁陽・上谷・代郡を相継いで降伏させ、四十を超える城を陥落させた。段遼は段蘭が敗戦していた事もあり、もはや石虎と一戦を交えようとは考えず、令支を放棄して妻子親族及び豪族千戸余りを率いて密雲山へ逃走を図った。この時、段遼は慕容翰の手を取って涙を流して「卿(慕容翰)の進言を用いず、自ら敗亡の道を選んでしまった。我はもとより自業自得だが、卿の寄る辺まで失う事になり、慙愧の念に堪えない」と謝罪したという。慕容翰はここで段遼と袂を分かち、北へ逃走して宇文部へ亡命した。
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