大阪商船の支配下に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 02:37 UTC 版)
国際汽船が経営再建に取り組んでいる最中の1931年(昭和6年)、日本郵船と大阪商船、近海郵船の3社は「郵商協調」と呼ばれる10年期限の協約を締結。競合する航路の整理や施設利用、業務関連での相互利用などが取り決められたが、その中のニューヨーク航路に関しては、大阪商船が8隻、日本郵船が6隻投入する比率が決められた。当時、大阪商船は画期的な性能を誇った畿内丸型貨物船4隻をニューヨーク航路に投入して所要時間を大幅に縮め、大きな反響をもたらしていた。畿内丸型貨物船の成功を見た他の日本の船会社、特に社外船主はこぞって優秀船をニューヨーク航路に投入していった。国際汽船もそのうちの一つであり、投入比率が6隻と決められていたものの浅間丸型貨客船などの建造に巨額を投じた影響で大きく出遅れていた日本郵船も、N型貨物船を投入して巻き返しを図った。 ところで、大阪商船がいくら日本郵船と協定結んで優位に立って協調路線をとっていたとはいえ、国際汽船などとは協定がなかったため競合する航路がいくつか存在した。そこで大阪商船は、経営の合理化を名目として国際汽船を支配下に置く決心を固めた。大阪商船は日本興業銀行、第一銀行および十五銀行に対して、三銀行が所有の国際汽船株22万株と債権を譲渡するよう交渉を重ね、1936年(昭和11年)12月に覚書を交わして翌1937年(昭和12年)2月に正式決定された。なお、株式譲渡に際して大阪商船は、国際汽船が当時建造中の貨物船3隻を肩代わりして引き受けたほかは、航路運営などは基本的に従前どおりとした。国際汽船の経営も、このころにはようやく長いトンネルから抜け出しつつあった。1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発で遠洋航路全体が縮小の方向に向かう中、翌1940年(昭和15年)、国際汽船はこれまで積み重なった債権などを繰り上げ償還し、また会社設立以来初となる配当を行うことができた。しかし、国際汽船はようやく迎えることのできた春を長く楽しむことはできなかった。 1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発を経て、日本の海運業界は1942年(昭和17年)4月設立の船舶運営会に運営航路を譲渡し、以降は単に運航実務者および船舶所有者という立場になった。国際汽船も昭和17年4月の時点では運航実務者に指定されていたが、1943年(昭和18年)に運航実務者が5つの班に再編された時には、国際汽船は大阪商船を筆頭とする第2班に属した。また、南方占領地域における現地航路の経営にも参画することとなった。しかし、戦況が日増しに悪化する中でさらなる業界再編成が行われることとなり、昭和18年7月発表の「船舶運航体制緊急整備要領」に基づいた海運会社の統合が打ち出された。大阪商船はこれに応えて、国際汽船および、資本的に密接な関係のあった北日本汽船と摂津商船、また昭和12年以降完全支配していた原田汽船の4社を吸収合併することとなった。時節柄、株主総会を省略して公告で合併を告知し、11月16日付で合併。こうして国際汽船は、24年の波乱の歴史に幕を閉じた。この時点で大阪商船は、国際汽船株40万株の64パーセントにあたる25万6000株を保有し、10対8の比率で株式割当を行った。合併後、国際汽船の組織は新たに創設された合同総局のもとで「国際部」と名を改めたが、1945年(昭和20年)2月の社内組織の改編に伴って消滅した。
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