大道芸から郷土芸能へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:03 UTC 版)
大道芸としては明治時代に衰退してゆく。さらに義務教育の定着などの社会の意識の変化により、児童に対して親方と呼ばれる大人が鞭を用いた体罰で芸を仕込むことや学校にも通わせないことに対する嫌悪感が生まれ、次第に忌避の対象となっていった。明治中期の東京では、小石川柳町が角兵衛獅子の棲家で、2 - 3人の親方が貧しい家の子を4 - 5歳のうちに4 - 5円で買い取り、体を柔らかくするために酢を飲ませたり、棍棒や分銅を使って稽古をさせるなどしており、その扱いが残酷であるとして警視庁から新たな子供を加えてはいけないという禁止令が出され、次第に数が減っていった。明治末期の1910年にロンドンで開かれた日英博覧会には、日本を代表する大道芸として他の芸人らとともに2名の角兵衛獅子が参加した。 そして昭和8年(1933年)の「児童虐待防止法」によって、児童を使った金銭目的の大道芸そのものが禁止となり、『大道芸』という形態としては姿を消すこととなった。そのためこのまま芸を消滅させるのは惜しいと考えた地元有力者の一人で新潟電鉄の設立者奥山亀蔵や芸能関係者らによって、数年後にお座敷芸として復活した。しかし本来の児童によるものではなく大人の芸妓が演じるものとしてであった。他の地域の者たちから『月潟』=『獅子』=『人買い』という謗りを受けることが多かった地元の村人たちにとってはこの芸能は『恥』であり、郷土芸能としての保存に積極的ではなかった。そのため、多くの道具や衣装などの資料はこの時期に廃棄されている。その後、昭和30年代に入ってから郷土芸能として復活させようとする機運が少しずつ起こるようになり、現在では地元の夏祭り「月潟まつり(角兵衛地蔵尊祭)」等で地元中学生らによって演じられている。 2013年(平成25年)4月15日には新潟市の無形民俗文化財に指定された。
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