大学本校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:28 UTC 版)
「大学校 (1869年)」の記事における「大学本校」の解説
御茶の水の旧昌平黌(現・湯島聖堂)に設置された。国学・漢学講義を担当したが、建前上は国学(皇学)第一とされていたため、江戸幕府以来の旧昌平黌出身の漢学教官と、京都にあった旧皇学所出身の国学教官の間に対立が絶えず、丸山作楽などの国学派がその地位を誇って儒学派を排斥したのに対し、水本成美ら儒学派は儒教は必ずしも外来思想ではないと主張した。明治2年8月2日(1869年9月7日)大学校で挙行された「学神祭」において、国学派が従来の孔子に代えて「八意思兼命」を祀ったことを発端に「学神祭論争」が起こった。さらに学内対立は、上記「大学規則」(明治3年2月制定)をめぐる洋学派・反洋学派(国学・儒学両派)間の論争など、深刻な派閥紛争に発展したため、明治3年7月12日(1870年8月8日)には学制改革を名目にして当分休校となり、再開されることなくそのまま廃校となった。これにより旧幕時代以来の昌平黌による漢学・儒学教育は断絶した。 高等教育の中で大きく後退をよぎなくされた国学者・儒学者が復権するのは、(旧)東京大学発足にともなう、文学部「和漢文学科」および「古典講習科」の設置以降のことである。
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