外征と領土拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 17:13 UTC 版)
56年7月には、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東朝鮮湾)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。68年8月に曷思国(朝鮮語版)の曷思王の孫の都頭王が国を挙げて投降してきた。72年2月には藻那国を討伐、74年10月には朱那国を討伐した。118年6月には濊貊とともに後漢の玄菟郡を襲い、121年には、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張している。しかし、その間105年には遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿夔の反撃にあって大敗してもいる。また、121年から122年にかけては馬韓や濊貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされてもいる。治世末期の146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。
※この「外征と領土拡張」の解説は、「太祖大王」の解説の一部です。
「外征と領土拡張」を含む「太祖大王」の記事については、「太祖大王」の概要を参照ください。
- 外征と領土拡張のページへのリンク