墓室とは? わかりやすく解説

墓室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:22 UTC 版)

浦添ようどれ」の記事における「墓室」の解説

浦添城跡北側崖下中腹設けられた掘込墓である。ようどれは夕凪の意。別名極楽陵。 西室英祖王陵)と東室尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓庭、門、石牆(石垣囲いからなる。国の史跡浦添城跡一部英祖1261年築き尚寧王1620年修築したと伝えられる。 墓庭から向かって右側が西室英祖王陵)、左側東室尚寧王陵)と言われている。墓庭は一番庭、二番からなり、その周りを石牆、中御門囲んでいる。外側にあった天然の岩からなる暗し御門」(くらしんうじょう)は戦争破壊された。 西室には中国産の閃緑岩製の石厨子石棺)が3基ある。東室には閃緑岩製1基、微粒子砂岩(方音:ニービヌフニ)製1基、石灰岩製1基の計3基の石厨子がある。 戦前墓庭にあった石碑「ようとれのひのもん(極楽山之碑文)」には、「尚寧王浦添から首里王位に就かれた。ようどれは英祖王の墓であるからこれをきれいに修理するとともに祖父小禄御殿二世尚弘業浦添王子朝喬)と父(三世尚懿王、与那城王子朝賢)の遺骸葬ったゆくゆくは尚寧王もここに入るだろう」という趣旨内容和文並びに漢文石碑表裏それぞれ記されていた。 沖縄戦大きな被害受けたが、近年発掘調査の後、戦前の姿に修復された。発掘調査から、浦添ようどれ最初13世紀造営されたと考えられ、『琉球国由来記』にある咸淳年間1265年 - 1274年)に造営されたという記述矛盾しないことが裏付けられた。癸酉年銘高麗瓦が発掘されていることから、咸淳9年癸酉1273年)が造営年として有力視されている。 この初期ようどれ(第1期)造営の後、尚巴志王代(第2期)、尚寧王代(第3期)の二回に渡って大規模な改修なされた西室にある閃緑岩石厨子は元々あった漆塗板厨子木製厨子)をこの第2期改修時に置き換えたものと考えられている。3基の石厨子のうち、一番大きなものが英祖王の石厨子と見なされている。 墓の中にある石厨子は県指定有形文化財になっている

※この「墓室」の解説は、「浦添ようどれ」の解説の一部です。
「墓室」を含む「浦添ようどれ」の記事については、「浦添ようどれ」の概要を参照ください。

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