城外の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:18 UTC 版)
準備を整えたオイゲンは救援行動を開始、6月末にアディジェ川に沿って南下した。ヴァンドームはロンバルディアでオーストリア軍を見張りアディジェ川で防衛線を構築していたため、アディジェ川を西進すると見せかけてから南東へ進路を変更、7月6日にヴェネト州の町ロヴィーゴで改めてアディジェ川を渡河、次いで17日にポー川も渡り南岸に沿って西進し、ヴァンドームの陣地を迂回してトリノ救援へ向かった。 フランス軍はオイゲンの来援を信じておらず、ヴァンドームは10日に陸軍大臣ミシェル・シャミヤールに楽観的な見通しを書いた手紙を送っていた。しかし、スペイン領ネーデルラントでイングランド・オランダ同盟軍と戦っていたヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルが5月23日のラミイの戦いで同盟軍司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルに大敗して更迭されると、ヴァンドームはフランス王ルイ14世の命令でネーデルラントへ出向、イタリア方面軍は新たにオルレアン公フィリップ2世とフェルディナン・ド・マルサンが指揮を執ることに決まった。 2人はアディジェ川の陣地に到着したが、未だオイゲンのトリノ救援を疑いロンバルディア防衛を継続していた。フランス軍が積極的に迎撃して来ないためオイゲンは西進を続けられ、同盟国からの軍資金を食糧購入に回して飢餓にも悩まされず安全に進軍出来た。8月29日にオイゲンはトリノ南方のカルマニョーラで騎兵隊を連れたヴィットーリオ・アメデーオ2世と合流、ロンバルディアのフィリップ2世らはオイゲンの意図をようやく理解してトリノ包囲軍と合流した。 フィヤードと対応を協議したフィリップ2世はオイゲン攻撃を主張したが、マルサンの反対で却下され守備に回ることが決まった。しかし、フランス軍陣地は川に囲まれていたが、夏の暑さで干上がっていたため守備の欠点が露呈、9月2日にオーストリア・サヴォイア同盟軍はスペルガという丘をフランス軍から奪い、そこから包囲軍の北西部が脆弱であることを発見、オイゲンはヴィットーリオ・アメデーオ2世に「彼らは半分打ち倒されたも同然だ」と宣言した。 7日早朝に同盟軍はフランス軍西部に攻めかかり、先鋒のプロイセン歩兵隊を率いるアンハルト=デッサウ侯レオポルト1世は3回攻撃を跳ね返されても屈せず立ち向かい、フランス軍右翼を打ち破った。やがてトリノからもダウン率いるオーストリア軍が打って出て左翼も撃破、包囲網を崩されたフランス軍は敗走していった。マルサンは重傷を負い捕らえられ、治療のため足を切断したが2日後の9日に死去、フィリップ2世とフィヤードは負傷しながらも戦線を離脱、フランス軍は多くの兵士が捕虜となり、大量の輜重も同盟軍の手に入った。
※この「城外の戦闘」の解説は、「トリノの戦い」の解説の一部です。
「城外の戦闘」を含む「トリノの戦い」の記事については、「トリノの戦い」の概要を参照ください。
- 城外の戦闘のページへのリンク