城塞の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:02 UTC 版)
「ナミュール包囲戦 (1692年)」の記事における「城塞の陥落」の解説
サンブル川がナミュールの町と城塞を分けていた。城塞はサンブル川の側が最も脆弱であったが、先の停戦協定によりこの方向から攻撃することができなかった。マース川を見下ろす側は岩壁の上にあり、この方向から攻撃することは不可能だった。そのため、唯一攻撃を仕掛けることができるのはウィレム砦(砦の名前はそれを築いたオラニエ公ウィレム1世に由来)がある西側だった。 フランス軍はまず、ウィレム砦への接近を阻んだラ・カショート(La Cachotte)というリダウトを占領しなければならなかった。塹壕掘りは6月8日に開始、12日には7個大隊とマスケット銃隊による強襲が行われた。ラ・カショートは陥落、ヴォーバンはクーホルン自ら守備するウィレム砦の奪取を開始した。ウィレム砦はちょうど山頂のところにあり、敵軍がもうすぐ城塞に着くところまでそれを妨害することができ、また城壁を砲撃から遮蔽した。フランス軍の工作隊は2方向から接近したが、直近の大雨により進軍は困難を極めた。クーホルンは砦を最後まで守り抜く決心の証として自分の墓を掘るよう命じた。彼はこの包囲戦で戦死せず、墓は必要なかったが、近侍を殺した1枚の砲弾により頭を負傷した。ウィレム砦への最後の強襲は6月22日に行われた。クーホルンの決意にもかかわらず、彼を含むウィレム砦の守備軍200人は降伏した。ヴォーバンは翌日にクーホルンと面会、彼が少なくとも「もっとも偉大な王様に攻撃されるという栄誉」があったと述べた。これに対し、クーホルンは本当の慰めになったことは強襲の最中にヴォーバンに包囲用の砲台を7回も動かさせたことだったと返答した。 大雨により、道路はほぼ通れない状態にあり、フランス軍の砲台への弾薬の輸送が滞った。サン=シモン公爵(英語版)によると、「大砲1門を別の砲台に移動するだけで3日間かかったときもあった。台車は使えず、砲弾などはロバと馬で輸送された[...]それらがなければ何もできなかった」という。しかし、ナミュール周辺は多くが林地であり、かいばが少なかったためフランス軍はロバと馬などの動物には葉っぱと枝を与えるしかなく、その多くを失う結果となった。 このように包囲が困難を極め、弾薬も不足したため、ヴォーバンはルイ14世に条約を破ることを求め、ナミュールの町の側から城塞を攻撃しようとした。ヴォーバンの意見は、どちらも不名誉ではあったが、条約を破って攻撃することは包囲を解くことよりは良い、というものだった。しかし、ウィレム砦が陥落した後はほかの防御工事も長くもたなかった。最終的な降伏は6月30日になされ、残りの駐留軍は7月1日に退去した。包囲戦に従軍したサン=シモン公によると、「ずっと続いた雨により全てが沼地と化したため、力も食料も尽きかけていた」包囲軍にとっては待つに待った報せだった。
※この「城塞の陥落」の解説は、「ナミュール包囲戦 (1692年)」の解説の一部です。
「城塞の陥落」を含む「ナミュール包囲戦 (1692年)」の記事については、「ナミュール包囲戦 (1692年)」の概要を参照ください。
- 城塞の陥落のページへのリンク