国共内戦以後とは? わかりやすく解説

国共内戦以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:49 UTC 版)

呉鉄城」の記事における「国共内戦以後」の解説

日中戦争終結後1946年民国35年1月呉鉄城重慶開催され政治協商会議(旧政協)に国民党代表として出席している。1948年民国37年11月孫科が行院長となると、その希望により呉は行政院副院長外交部長に任ぜられた。翌年1月蔣介石下野し李宗仁代理総統になり、中国共産党との和平交渉開始すると、孫・呉はこれに反対し、まもなく辞任している。国共内戦国民党敗北すると、呉鉄城台湾へ逃れ総統府資政に任ぜられた。 1953年民国42年11月19日台北市にて病没享年66(満65歳)。

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国共内戦以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:29 UTC 版)

張群」の記事における「国共内戦以後」の解説

日中戦争の後、張群国民党代表周恩来共産党代表と重慶和平会談行い1945年民国34年10月10日双十協定結ばれた。しかし張群は、共産党軍事力につき整編しなければならない、との留保表明しており、完全な停戦協定とはならなかった。1947年民国36年4月張群行政院長任命され戦後経済復興政策進めようとした。しかし、国共内戦などもあって効果はなかった。翌年5月行政院長辞して中政会秘書長異動している。 国共内戦末期1949年民国37年1月重慶綏靖公署主任(後に西南軍政長官公署長官)に任じられ西南確保のための方策実施する同年12月雲南省政府主席盧漢昆明訪問したところ、共産党への起義を宣した盧漢により張群逮捕拘束されてしまう。しかし、盧漢とは日ごろから交流があったことなどもあり、まもなく釈放されて、台湾へ逃亡した台湾へ逃れてからも、国民党中央非常委員行政院設計委員会員、総統府秘書長国防会議秘書長などの要職歴任している。また、日本との重要な交渉担当し何度訪日し経済協力反共戦略などを日本政府側と話し合った1990年民国79年12月14日老衰により台北市にて病没享年102(満101歳)。

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