国共内戦以後
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日中戦争終結後の1946年(民国35年)1月、呉鉄城は重慶で開催された政治協商会議(旧政協)に国民党代表として出席している。1948年(民国37年)11月、孫科が行政院長となると、その希望により呉は行政院副院長兼外交部長に任ぜられた。翌年1月、蔣介石が下野し、李宗仁が代理総統になり、中国共産党との和平交渉を開始すると、孫・呉はこれに反対し、まもなく辞任している。国共内戦で国民党が敗北すると、呉鉄城は台湾へ逃れ、総統府資政に任ぜられた。 1953年(民国42年)11月19日、台北市にて病没。享年66(満65歳)。
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国共内戦以後
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日中戦争の後、張群ら国民党代表は周恩来ら共産党代表と重慶で和平会談を行い、1945年(民国34年)10月10日、双十協定が結ばれた。しかし張群は、共産党の軍事力につき整編しなければならない、との留保を表明しており、完全な停戦協定とはならなかった。1947年(民国36年)4月、張群は行政院長に任命され、戦後経済復興の政策を進めようとした。しかし、国共内戦などもあって効果はなかった。翌年5月、行政院長を辞して中政会秘書長に異動している。 国共内戦末期の1949年(民国37年)1月、重慶綏靖公署主任(後に西南軍政長官公署長官)に任じられ、西南部確保のための方策を実施する。同年12月、雲南省政府主席盧漢を昆明に訪問したところ、共産党への起義を宣した盧漢により張群は逮捕、拘束されてしまう。しかし、盧漢とは日ごろから交流があったことなどもあり、まもなく釈放されて、台湾へ逃亡した。 台湾へ逃れてからも、国民党中央非常委員、行政院設計委員会員、総統府秘書長、国防会議秘書長などの要職を歴任している。また、日本との重要な交渉も担当し、何度か訪日して経済協力、反共戦略などを日本政府側と話し合った。 1990年(民国79年)12月14日、老衰により台北市にて病没。享年102(満101歳)。
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