合同の根拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 09:19 UTC 版)
「ポーランド・リトアニア・モスクワ共和国」の記事における「合同の根拠」の解説
ポーランドとロシアの連合を唱えたのは、主にヤン・ザモイスキやレフ・サピェハらポーランド・リトアニア共和国の大貴族(マグナート)であった。彼らの狙いは、衝突の絶えなかった国境地帯に平和をもたらすこと、三国によるより強大な同盟軍を創出することの他に、ポーランド本土と比べて人口希薄なロシアへの植民と農奴制の確立などがあった。またこの構想は、正教圏のロシアをカトリックへ引き込もうともくろむイエズス会をはじめとした西欧の修道会の支持も受けていた。一方ロシアでも、様々な目論見から三国の同君連合に食指を動かした大貴族(ボヤール)がいた。フョードル1世の摂政ボリス・ゴドゥノフは、フョードルをポーランド・リトアニア共和国の国王選挙に立候補させることでロシア主導の三国連合結成を試みた。また選挙王制下でポーランド貴族が享受していた黄金の自由に憧れ、連合によってツァーリの権力を弱めようと策動しポーランド王子ヴワディスワフのツァーリ戴冠を支持した者もいた。 こうした政治的な理由のほかにも、経済障壁の撤廃や人々の移動の自由化などが期待された。連合結成の枠組みはポーランド王国とリトアニア大公国との間で1569年に成立したルブリン合同の前例があった。しかし、ポーランド側から出された提案はすべてロシアのツァーリにより却下された。最も妥結に近づいたのは1600年である。レフ・サピェハらポーランドの使節団がモスクワに到来し、その時ツァーリとなっていたボリス・ゴドゥノフに具体的な提案を行った。これはポーランドとロシアの両国の国民に、仕える王を選ぶ自由、移動の自由、互いの領民と結婚する自由、土地所有の自由、留学の自由を認めるというものだった。 ロシア側は犯罪者の引き渡しなどいくつかの点には賛成したが、宗教的寛容を求める条項には強く抵抗した。あらゆる宗教の布教を容認していたポーランド・リトアニア共和国と異なり、ロシアではカトリックを始めとした正教以外の宗教は迫害されていた。またポーランドの学者によれば、ロシア側は移動の自由にも反対した。ロシアのツァーリ体制をポーランド・リトアニアのような貴族共和政体に組み込むというのはあまりにも野心的な構想であった。既にリトアニアやルテニアの貴族が見舞われたようなポーランド化(英語版)(ポロニザツィヤ、polonizacja)を恐れるロシア人は少なくなく、またロシアからの農民流出の激化も懸念された。この動きはイヴァン4世によるオプリーチニナなどによる圧政から始まったものだった。1596年のブレスト合同でウクライナ東方カトリック教会が成立したことも、ロシアのカトリック化の前段だとして正教徒の反対派からの抵抗の一因となった。
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