反乱を目論む
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 10:00 UTC 版)
300年11月、朝廷からの詔により、趙廞は洛陽へ召還されて大長秋に昇進となり、新たに成都内史耿滕が益州刺史に任じられる事が告げられた。 当時、洛陽朝廷では政変が起こっており、専横を極めていた賈南風とその一派が誅殺され、趙王司馬倫が政権を掌握していた。趙廞は彼女とは姻戚関係にあり、かねてよりその後ろ盾を侍みとしていたので、今回の朝廷からの召還命令が自分を誅殺する為の口実なのではないかと勘繰り、大いに動揺した。かつて趙廞は占いによって『星黄者王』という予言を得ており、この時の趙の星は黄色く輝いていた。その上、度重なる政変と各地方の混乱により晋朝は衰退していた事もあり、遂に彼は「蜀土は四方を塞がれている。自らを安んじる事が出来よう」と考え、密かに蜀の地の占有を目論むようになった。また当時、前述した氐・羌の反乱などにより雍州・秦州から多数の流民が益州へ避難してきており、趙廞はかつて劉氏がこの地に割拠したことに倣い、ありったけの官庫の食糧を流民達へ振舞って人心掌握に努めた。これらの流民を束ねていた李特・李庠らの兄弟は武勇に優れており、配下の者は巴西の出身で趙廞とは同じ出自であった為、趙廞は彼らを厚遇して自らの爪牙とした。だが、流民達は趙廞の庇護を恃みとして益州で強盗・略奪を為すようになったので、蜀の民はこれを患ったという。 耿滕はこの状況を憂えて、何度か密かに上表し「流民には剛強・剽悍な者が多く、蜀人は怯懦・軟弱です。これでは主人と客人の立場が逆転してしまい、必ずや災いを引き起こします。流民達を元の土地へ戻らせるべきです。もしも彼らを険阻な蜀の地に留め続けるならば、恐らく秦州・雍州の災禍は梁州・益州に転移してしまいます」と訴えた。また「(益州の)倉庫は枯渇してしまっており、万一の事態に応じる事が出来ません。必ずや聖朝にとって西顧の憂いとなりましょう」とも訴えた。これらの上表が趙廞の耳に入ると、彼は耿滕を深く憎んだという。
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