北陸追討と都落ち
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寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、平氏の総力を結集した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かう。『平家物語』の「北陸下向」によると、遠征軍は進軍路で兵糧調達のため乱暴な取り立てを行いながら進軍した。これは養和の大飢饉の後のため、兵糧米が京都付近では十分に調達出来なかったので、進軍路での兵糧調達「追捕(ついぶ)」を朝廷から許可されたためである。また出発前に京でも兵糧調達のために乱暴したことが『玉葉』に記述されている。だが5月には倶利伽羅峠の戦い、6月には篠原の戦いで義仲軍に大敗。『玉葉』によると、4万の平氏軍で甲冑を付けていたのは4、5騎で平氏軍の過半数が死亡、残りは物具を捨てて山林に逃げたが討ち取られたという。平氏第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走した。敵軍はわずかに5千、かの3人の侍大将と大将軍(維盛)らで権威を争っている間に敗北に及んだという。 同年7月、平氏は都を落ちて西走する。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男六代を都に残し、妻子との名残を惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛系一族の変心を、宗盛や知盛が疑うような場面がある。
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