北陸追討と都落ちとは? わかりやすく解説

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北陸追討と都落ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:17 UTC 版)

平維盛」の記事における「北陸追討と都落ち」の解説

寿永2年1183年4月維盛総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し平氏総力結集した総勢10万(4万とも)の軍勢北陸に向かう。『平家物語』の「北陸下向」によると、遠征軍進軍路で兵糧調達のため乱暴な取り立て行いながら進軍した。これは養和の大飢饉の後のため、兵糧米京都付近では十分に調達出来なかったので、進軍路での兵糧調達追捕(ついぶ)」を朝廷から許可されたためである。また出発前に京でも兵糧調達のために乱暴したことが『玉葉』に記述されている。だが5月には倶利伽羅峠の戦い6月には篠原の戦い義仲軍に大敗。『玉葉』によると、4平氏軍甲冑付けていたのは4、5騎で平氏軍過半数死亡残りは物具を捨てて山林逃げた討ち取られたという。平氏第一勇士であった侍大将平盛俊藤原景家忠経伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走した敵軍わずかに5千、かの3人の侍大将大将軍維盛)らで権威争っている間に敗北及んだという。 同年7月平氏は都を落ちて西走する。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男六代都に残し妻子との名残惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛一族変心を、宗盛知盛が疑うような場面がある。

※この「北陸追討と都落ち」の解説は、「平維盛」の解説の一部です。
「北陸追討と都落ち」を含む「平維盛」の記事については、「平維盛」の概要を参照ください。

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