北朝鮮核問題への取り組み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 22:29 UTC 版)
「ウィリアム・J・ペリー」の記事における「北朝鮮核問題への取り組み」の解説
1998年に代替軽水炉建設に北朝鮮側が色々な注文を付けて建設が大幅に遅れ、1994年の「米朝枠組み合意」が崩壊一歩前の状態にいたっていた。また、1998年8月に北朝鮮は警告無しにテポドン1号の実験を実施した。このミサイルは日本列島を越えて太平洋に落下し、一気に緊張が高まった。これらの問題に対処するためアメリカのクリントン大統領は、すでに国防長官を譲っていたウィリアム・J・ペリーを同年11月に北朝鮮政策調整官に任命してこの任に当たらせた。ペリー調整官は、韓国(金大中政権)・日本(小渕政権)と意見を調整して、翌年の1999年5月に特使として北朝鮮を訪問した。北朝鮮側の反応は芳しくなく、金正日総書記にも面会できなかった為交渉は失敗したとも思われたが、その後ゆっくりと交渉が進展し、2000年10月に金総書記が特使をアメリカへ派遣するに至った。「この後クリントン大統領が訪朝すれば、「休戦状態」にある朝鮮戦争を終わらせることができたかもしれない。」とペリーは回想しているが、クリントン大統領は任期末にある上に中東問題も抱えていたため、クリントン大統領の北朝鮮訪問は実現しなかった。
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