北人の起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 01:45 UTC 版)
宣祖の時代の1591年、西人派が世子(後継者)擁立問題で失脚すると、東人派が政権を掌握した。東人派は西人派を粛清したが、このとき東人派は、李山海の謀略によって失脚させられた西人派の鄭澈を死刑にすべきだと主張した強硬派の李山海を中心とした北人と、穏健派の禹性伝(朝鮮語版)、柳成龍らを中心とした南人の2つの派閥に分裂した。これが北人の起こりである。 はじめは南人派が優勢であったが、1602年、南人派の柳成龍が文禄の役の時に和議を主張したとして弾劾を受け追放されたことで、北人派が政権を掌握するようになった。(文禄の役の時に活躍した義兵将の大部分が北人だったのも理由のひとつである。) 世子擁立問題は、宣祖には正妃の産んだ嫡子が居なかったことと、庶子で長男である臨海君が世子としてふさわしくないとされたために、長い間問題になっていた。特に世子の認定には明の承認が必須であったが、1594年に次男の光海君を世子として冊立する陳情が長男では無いと言う理由で拒絶されたこともあり、この問題は長引き、この件にかかわる政争も長く続いた。
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