募るオスマン帝国への不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/07 07:27 UTC 版)
「ワラキア蜂起」の記事における「募るオスマン帝国への不満」の解説
19世紀のワラキアの人々 ロシア軍はワラキア、モルダヴィアにそのまま駐留したが、1812年、ナポレオンとの間に緊張が走ると5月28日、ブカレスト条約が結ばれてロシア軍はベッサラビア等、ロシアへ編入された地域まで撤退、両公国は再びファナリオティスによって統治されることになった。しかし、ファナリオティスたちもオスマン帝国への反発を徐々に明らかにしていった。 しかし、このファナリオティスらによる統治はワラキア、モルダヴィア両公国にとって圧政の象徴でしかなかった。オスマン帝国はこの制度を利用して莫大な金額、膨大な物資を搾取した。日々の労働時間は増加する一方で手工業も列強らが進出したことによって発展が阻害されていた。ワラキア、モルダヴィアで設立された工場のほとんどが短期間で倒産し、一部の工場だけが操業を続けている状況であった。 こうしてワラキア、モルダヴィア両公国が発展するにはオスマン帝国を排除するほかないという段階にまで至っていた。1804年以降、セルビアではオスマン帝国に対する反乱が頻発し、1817年に自治を得るに至っていた。また、ギリシャ人らも独立運動を展開しており、1814年、ロシアのオデッサにおいてフィリキ・エテリアを結成して独立を目指していた。こうしてオスマン帝国によって占領されていたバルカン半島の諸民族らに独立の気運が高まりつつあった。
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