労働者教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 03:37 UTC 版)
労働者学校として社会政策講習所(1920年⇒1923年社会政策学院と改称)・労働学院(大阪支所は1922年)などを開設した。また横須賀海軍工廠労働組合工友会・佐世保海軍工廠労愛会・舞鶴海軍工作部共立会などの労働組合と協力し労働講座を開催した。労務者講習会は、常務理事の田澤義鋪が郡長時代に地方改良運動として考案実施した天幕(テント)講習会方式を取り入れ、実際の運営は東京師範学校出身の蓮沼門三が設立した修養団が担った。これは青年団の幹部養成講習を企業内教育に適用したもので、特に住友財閥系の企業が積極的に参加した。 また能率増進の研究・教育にあたる産業能率研究所が、1922年11月上野陽一を所長に協調会内に設立されたが、会の財政問題もあって1925年4月に「日本産業能率研究所」として分離独立した(現・学校法人産業能率大学の前身)。
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