利休の師であったと考えられる理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 04:46 UTC 版)
「辻玄哉」の記事における「利休の師であったと考えられる理由」の解説
利休と同時代に生きた山上宗二が書いた『山上宗二記』に以下の記述がある。 玄哉は紹鷗一の弟子、小壷大事一人に相伝なり。(中略)茶の湯の習いに二十年稽古の後印可を仕る時、小壺の茶の立て様を相伝なり。(中略)風歌に古今の伝授、小鼓の上に乱拍子同然に、紹鷗、辻玄哉に申し渡され候よし、宗易、拙子にも相伝の時申し聞かせられおわんぬ。 「小壷」とは、丸形の唐物茶入のことで、当時の茶の湯で最も重視されていた。「小壷大事」とは、「小壷」を使った点前やその鑑識についての秘伝。「印可」とは、仏教において師が悟りを得た弟子にそのことを証明すること。「宗易」とは千利休の本名で、「拙子」は著者である宗二のこと。 つまり、辻玄哉は武野紹鷗から「小壷」の取り扱いについての秘伝を授かった唯一の弟子であり、利休と宗二にも「小壷」の取り扱いについての秘伝が授けられた、と書かれている。誰が利休と宗二に授けたのかが明記されていないが、紹鷗から伝授された唯一の弟子である辻玄哉しか有り得ない、と推測される。 また、利休の孫である千宗旦は、利休が辻玄哉から台子点前を教わった、と弟子の藤村庸軒に話している(『茶話指月集』)。
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