刑罰用の首輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 03:41 UTC 版)
手枷と同様に犯罪者への刑罰としての首枷が、中国を初めとして、中世ヨーロッパや中世日本でも用いられた。出土事例としては、1962年の中国で、漢代の刑徒の墓が522基発見されたが、その内の一基の墓センから、南陽郡宛県出身の陳便という刑徒が頭髪を剃られ、鉗(けん)=鉄の首枷をされたこと、永初元年(107年)5月25日に埋葬されたことが記されており、鉗自体も出土している(鶴間和幸 『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 講談社 2004年 p.351.写真あり)。 手枷と一体化したものが多く、おしゃべり、飲酒、博打、追突への刑罰に対し用いられている。奴隷が存在していた時代には自由を奪うために拘束具として首輪が用いられた。見せしめとしての意味も大きい。文献例として、14世紀成立の『太平記』二巻に首枷の記述が見られるが、手枷は前にあり、「縦型」で、西洋のような頭の横に手枷がある「横型」ではない。
※この「刑罰用の首輪」の解説は、「首輪」の解説の一部です。
「刑罰用の首輪」を含む「首輪」の記事については、「首輪」の概要を参照ください。
- 刑罰用の首輪のページへのリンク