分裂騒動の経緯
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1999年暮れ頃、1部の常連校の中から、人気と実力の両面で陰りの傾向が見えていた連盟の運営と実情に不満が噴出。特に下部所属校の一部に対して運営に積極性がないとする批判がだされ、連盟活性化の足かせとなっているという強硬な意見が表面化し、1つの巨大連盟であることの是非が問われ再編案が出された。 その内容は、愛知大学野球連盟内を「愛知六大学野球連盟」「愛知学生野球連盟」「中京学生野球連盟」(いずれも草案時の仮称)に分け再編し、前者2つはそれぞれ6大学で構成、残りを1つにまとめるという構想で、分割することによる運営のスリム化と将来的な愛知からの代表枠増を狙った準備再編であった。草案としての構成校は、愛知六大学が1部所属の5大学と名古屋大学(この編成は明らかに東京六大学野球連盟、関西学生野球連盟を意識したものと考えられる。)、愛知学生は1部所属の1校と2部所属の中から5校と発表されたが、構成校の選択内容とその理由が独善的であると多くの加盟校の反発を招き、結局この提案は支持を得られずに多数でもって否決されてしまった。 連盟内調停に失敗した再編支持派の愛知大学、愛知工業大学、中京大学、名古屋大学、名城大学の5大学は、2000年2月に愛知大学野球連盟からの脱退を強行し、再編派の離脱5大学は新連盟の承認の打診を全日本大学野球連盟に求めた。しかし、分裂騒動に不快感を示した全日本大学野球連盟は、離脱した5大学グループに対して強硬路線の沈静化要求とともに、全日本大学野球選手権への出場枠は与えない(新連盟は承認しない)旨を回答する。離脱側はこの決定に対して独立は断念し、同年3月には愛知連盟に復帰を求めることになった。
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