再び、フランス亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:10 UTC 版)
「ルネ・ドゥペストル」の記事における「再び、フランス亡命」の解説
1976年出版の『キューバの詩人』はキューバ革命を題材としながらもカストロ政権批判を含むものであったため、キューバでは発禁処分を受け、パリで出版された。この頃、各国の共産主義政権に失望し、共産党を脱退した。1978年にはジャマイカの西インド諸島大学モナ校で、2か月間、現代フランス文学講座を担当した。同年、家族とともに渡仏し、ユネスコの活動に貢献した。最初はパリ本部に勤務し、さらに文化事業のために世界各地に赴任した。1975年にキューバで削除版(スペイン語版)として出版された処女小説『宝棒』の完全フランス語版がガリマール社から出版された。1982年、短編集『ハイチ女へのハレルヤ』が同じくガリマール社から出版。1984年には日本で開催された国際ペンクラブ会議にユネスコ代表として参加した。1985年、サンゴールが議長を務める世界詩人会議の第8部会にユネスコ代表として参加し、「危機に直面した世界において、詩に何ができるか」と題する講演を行った。1986年、ユネスコを辞任し、家族とともに南仏オード県のレジニャン・コルビエールに越した。以後、執筆活動に専念し、ゴンクール賞(短編小説部門)、ルノードー賞、アポリネール賞など数々の賞を受け、多くの言語に翻訳され、世界的な評価を得ることになった。1991年、ハイチのジャン=ベルトラン・アリスティド大統領はドゥペストルに何度か電話し、ハイチに戻るよう説得したが、ドゥペストルはこれを拒否し、同年、家族とともにフランスに帰化した。 2004年に来日し、東北大学で講演「トゥッサン・ルーヴェルチュールからエメ・セゼールまで」、日仏会館・フランス国立日本研究所(UMIFRE19 フランス外務省・国立科学研究センター)で講演「ハイチ ― 1804年の革命と2004年の政変」を行った。 2005年、ジャン=ピエール・ラファラン首相により、ミシェル・バルニエ外相、作家レジス・ドゥブレとともにハイチに派遣され、45年ぶりの帰国を果たした。アンスティチュ・フランセ・ハイチで講演を行った後、グアドループ、マルティニークを訪れた。
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