内部競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 14:41 UTC 版)
「ソビエト連邦の宇宙開発」の記事における「内部競争」の解説
アメリカの宇宙計画はNASAが唯一の調整機関であり、1960年代のほとんどを通じてジェイムズ・ウェッブ長官が指揮を執ったのとは異なり、ソ連の宇宙計画はコロリョフ、ミハイル・ヤンゲリ、ヴァレンティン・グルシュコ、ウラジーミル・チェロメイに率いられた、複数の設計グループ(設計局)に分かれていた。 1957年から1961年のスプートニクの成功と1961年から1964年のボストークの成功を受けて、コロリョフの第1設計局は影響力を増し、月への有人探査と常駐宇宙ステーションの中心となるべきソユーズとN-1ブースターと共に計画を進める予定だった。しかし、ドミトリー・ウスチノフはコロリョフに非常に信頼性の高いボスホートと使った地球近傍計画と金星や火星への無人惑星探査計画に専念するように指示した。 ヤンゲリはコロリョフの助手をしていたが、ソ連軍の援助により1954年、自分の設計局を与えられ主に軍事宇宙計画に従事した。この設計局にはハイパーゴリック推進剤の使用を含めた強力なロケットエンジン設計チームがいたが、1960年のニェジェーリンの大惨事を受けて、ヤンゲリはICBMの開発に専念するよう指示を受ける。彼は軍事的利用と将来の宇宙ステーション建設への輸送利用の両方のために、コロリョフのN-1ロケットに似たデザインの独自の大型ブースターの開発を続けた。 グルシュコはロケットエンジンの主任設計者であったが、コロリョフとの個人的衝突があり、コロリョフが必要としていた大型シングルチャンバー極低温エンジンの開発を拒否した。 チェロメイはフルシチョフの支援を受け、1960年に月や軍事宇宙ステーションに有人船を送るロケットの開発という仕事を与えられるが、経験に乏しく彼の開発は遅れた。 1960年代初頭の一時期には、ソ連の宇宙計画は30ものロケットや宇宙機の開発プロジェクトを抱えており、設計局の主任は互いに争い、自らのプロジェクトを実現させるため共産党や軍の首脳との個人的な関係構築に追われていた。結果、これら乱立するプロジェクトに予算は分散してしまった。 フルシチョフの失脚により、1964年コロリョフは有人飛行計画の完全な指揮権を与えられる。
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