優勢な側に味方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 16:25 UTC 版)
後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力が各地で蜂起し、九州でも博多の鎮西探題北条英時が、守護であった大友氏・島津氏・少弐氏などの軍勢に攻められて滅亡した。中央での倒幕勢力が大きくなると、松浦党諸家は、それぞれの家長の判断によって、ある者は後醍醐天皇の軍勢催促の綸旨に応じ、ある者は北条英時の元に馳せ参じた。 建武3年(1336年)3月、京都での権力争いに敗れた足利尊氏は再起を期して九州に逃れてきたが、この時松浦党の一部の家々は、これを迎え撃った菊池武敏側の軍にあった。しかし、多々良浜の戦いで尊氏の勝利が動かない状勢になると、松浦党はたちまち尊氏側に寝返った。そして、松浦党は足利氏と同じ源氏の末裔と称して、それを積極的に主張するようになった。それに伴って、松浦一族でない松浦地方の他氏族も婚姻関係を頼って松浦一族を主張するようになった。
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