僧堂師家そして南禅寺派管長時代とは? わかりやすく解説

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僧堂師家そして南禅寺派管長時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:56 UTC 版)

柴山全慶」の記事における「僧堂師家そして南禅寺派管長時代」の解説

1948年(昭和23年)6月2日、この当時南禅僧堂師家華山大義不慮遷化後、止む無く師家復帰した嶋田菊僊南禅寺派管長(1872-1959)であったが、この年には既に76歳と高齢であったこともあり、全慶は決意し25年過ごした慈氏院を退き南禅僧堂師家となったその時気持ちが、日本仏教エスペランチスト連盟会長浅野三智氏への手紙にこめられている。 「私は周囲要請本山道場復興することになり、道場師家就任致しました今迄如く大谷大学花園大学教授如き自由人として生きれ〔ママ?〕ず、且つ非常に多忙であります然しその中にあって少しでも新鮮な空気教団へと思っていますがとてもとてもです。そんな次第エス語運動手を出していられません」(柴山老師書簡浅野三智刊)。 1960年(昭和35年)には、多忙のため花園大学大谷大学教職退いた1962年(昭和37年)の春には、開山南院国師650年大遠忌を営む。 鈴木大拙要請1965年(昭和40年)より毎年アメリカ大学で、禅講座出向き8年続けた別の項で後述)。 南禅僧堂会報で、中村文峰管長が全慶老師について次の様に述べている。「生前よく仰っていたことに『世界中に牛の皮を敷き詰める事は出来ないが、皮の靴を履けば世界中を牛の皮で歩く事ができる』と。死ぬ迄修行、死ぬ迄自己研鑽。口で言うのは容易いが、とてつもない難業である。」 1967年(昭和42年)より僧堂師家法嗣勝平宗徹譲り管長職に専念する1974年(昭和49年)5月には全慶の念願であった英訳 無門関」が完成する。それを見届けるかのように8月29日遷化(柴山全慶老師 略年譜 p.9)。

※この「僧堂師家そして南禅寺派管長時代」の解説は、「柴山全慶」の解説の一部です。
「僧堂師家そして南禅寺派管長時代」を含む「柴山全慶」の記事については、「柴山全慶」の概要を参照ください。

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