僧堂師家そして南禅寺派管長時代
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「柴山全慶」の記事における「僧堂師家そして南禅寺派管長時代」の解説
1948年(昭和23年)6月2日、この当時の南禅僧堂師家は華山大義の不慮の遷化後、止む無く師家に復帰した嶋田菊僊南禅寺派管長(1872-1959)であったが、この年には既に76歳と高齢であったこともあり、全慶は決意し25年過ごした慈氏院を退き、南禅僧堂師家となった。 その時の気持ちが、日本仏教徒エスペランチスト連盟会長浅野三智氏への手紙にこめられている。 「私は周囲の要請で本山の道場を復興することになり、道場の師家に就任致しました。今迄の如く大谷大学や花園大学の教授の如き自由人として生きれ〔ママ?〕ず、且つ非常に多忙であります。然しその中にあって少しでも新鮮な空気を教団へと思っていますがとてもとてもです。そんな次第でエス語運動に手を出していられません」(柴山老師書簡・浅野三智刊)。 1960年(昭和35年)には、多忙のため花園大学と大谷大学の教職を退いた。1962年(昭和37年)の春には、開山南院国師650年大遠忌を営む。 鈴木大拙の要請で1965年(昭和40年)より毎年アメリカの大学で、禅講座に出向き8年間続けた(別の項で後述)。 南禅僧堂の会報で、中村文峰管長が全慶老師について次の様に述べている。「生前よく仰っていたことに『世界中に牛の皮を敷き詰める事は出来ないが、皮の靴を履けば世界中を牛の皮で歩く事ができる』と。死ぬ迄修行、死ぬ迄自己研鑽。口で言うのは容易いが、とてつもない難業である。」 1967年(昭和42年)より僧堂師家を法嗣の勝平宗徹に譲り、管長職に専念する。 1974年(昭和49年)5月には全慶の念願であった「英訳 無門関」が完成する。それを見届けるかのように、8月29日に遷化(柴山全慶老師 略年譜 p.9)。
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