個人的影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:33 UTC 版)
「ジュリアン・ハクスリー」の記事における「個人的影響」の解説
20世紀初頭にあって、ハクスリーは自然選択が進化の原動力であり、小さなステップが積み重なって(跳躍ではなくて)進化が起きると考えていた少数派の生物学者であった。この視点は現在のスタンダードである。研究者として彼が果たした役割はほんのわずかだったが、1920年代のオックスフォードで数多くの生物学者を育てた。 生態学のチャールズ・エルトン、海洋生物学のアリスター・ハーディ、細胞学のジョン・ベイカーはみなそれぞれの分野で成功した。ベイカーはハクスリーが死んだとき、王立協会の追悼記事を執筆した。 恐らく最も重要なのはエドモンド・ブリスコ・フォードであろう。彼は生態遺伝学と呼ばれる分野を創設し、総合進化説の成立に貢献した。 もう一人重要な弟子はギャビン・ド・ビアで、彼は進化と発生の関わりについて論文を書き、自然史博物館の館長となった。 この二人の優れた科学者は共に、実験動物学、発生学、遺伝学、動物行動学のハクスリーの講義に出席した。彼らはハクスリーの同僚となり、またそれぞれの分野で指導者となった。 科学者が今日ほど頻繁に旅行しなかった時代に、ハクスリーは例外であった。彼はヨーロッパとアメリカ合衆国、アフリカ、ロシアの各地を旅行した。そのため彼は各地の科学者、ナチュラリスト、行政官と交流し、影響を与える事ができた。 アメリカでは自然選択説が危機的状況にあったときに、他の進化生物学者の再評価に影響を与えた。 アフリカでは植民地政府にアフリカの教育と自然保護について助言した。 ヨーロッパではユネスコを通して、第二次世界大戦後の教育の再建に大きな役割を果たした。 ロシアではハクスリーの経験は複雑である。彼の好意的な視点はスターリンの残酷な抑制政策とルイセンコ事件を認識するに従って転換した。彼がソビエト連邦に影響を残したという証拠はほとんど無いが、それは他の西側の科学者についても同じ事が言える。「マルクス=レーニン主義は独断的な宗教になった......そして全ての独断的な宗教と同じように、それは改革から迫害へ転じた」。
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