信濃教育会
(信濃教育 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/02 03:53 UTC 版)
公益社団法人信濃教育会(こうえきしゃだんほうじんしなのきょういくかい)は、長野県の教育職能団体である。会員の会費により運営している。1886年(明治19年)7月に、「我邦教育の普及改良及びその上進を図る」ことを目的に設立された。初代会長は浅岡一。長野全県をあげての教育運動「信州教育」や、今日まで続刊されている教育雑誌『信濃教育』で知られる。
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編[1990: 56]
- ^ 信濃毎日新聞社開発局出版部編[1981: 361-362]
- ^ a b c 信濃毎日新聞社開発局出版部編[1981: 361]
- ^ 東栄蔵「信州の教育・文化をめぐって」 文藝出版 2018年
- ^ “進学率アップ 道半ば”. YOMIURI ONLINE. 読売新聞 (2008年2月14日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年10月25日閲覧。
- ^ a b “改革に着手 信濃教育会”. YOMIURI ONLINE. 読売新聞 (2008年2月13日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年10月25日閲覧。
- 1 信濃教育会とは
- 2 信濃教育会の概要
- 3 組織
信濃教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 19:00 UTC 版)
こうした長野県における教育を支える側の教員たちの職能団体として成立し、「信州教育」を担ったのが、信濃教育会である。信州教育とは、明治15年に県立長野師範校長として赴任した能勢栄が提唱した概念で、長野県における教育が他府県のそれよりも優れた特質をもつとの評価を与えるものであった。特に日清戦争後には、就学率の高まりを背景に、地域割拠の目立つ長野県の教育界を全県的に盛り立てるため、「汎信州主義」などの語とともに信州教育を強調した。また、1907年(明治40年)には、信濃図書館を開設したが、これは後の長野県立図書館の前身となった。 県下全郡市に部会を持つようになった大正期には、月例集会での会員相互の討論・演説・研究・講習を通じての研鑽や、島木赤彦、土屋文明らを専任の編集主任に迎えた『信濃教育』の刊行 を通じての教育的主張のほか、各地の教師たちによる独自の教育実践が展開された。この時期の教育活動を特徴付けるのは、武者小路実篤らの『白樺』に影響を受けた人道主義的・自由主義的教育で、子供の個性を伸ばすことを重んじるものであった。しかし、1924年(大正13年)、松本師範学校付属小学校で行われていた教科書に頼らない修身授業が文部省視学委員の非難を浴びると(川井訓導事件)、そうした大正自由教育とその担い手であった青年教師たちは、県当局からの非難や処分を受けただけでなく、教育会内部でも孤立し、困難な状況に置かれた。この時期の教育実践の再評価は、第二次大戦後を待たなければならなかった。大戦中の翼賛体制下では、全国で最も多くの満蒙開拓青少年義勇軍を送出し、軍国主義教育に積極的に協力した。1944年11月には国の要請により大日本教育会長野県支部となったが、運営の実権はなおも掌握し続けた。また、他の教育雑誌が大日本教育会の『日本教育』に統合されるなか、『信濃教育』は、用紙を調達できなかったただ一度を除き毎月欠かさず刊行され続けた。敗戦により、大日本教育会が解散すると、1946年11月に会則を変更して信濃教育会に復した。 1949年、GHQ長野軍政部教育課長のウィリアム・A・ケリーが教員のレッドパージを強行すると(ケリー旋風)、長野県教職員組合は弱体化され、それに替わって信濃教育会が長野県における教育に大きな影響力を持つようになった。これは他の都道府県において、教職員組合の結成により各地の教育会が解消するのとは対照的であった。 しかしながら、長野県の高校卒業者の大学進学率の低さに対する指摘 や、信濃教育会の影響力が強い一方で、その影響力が長野県の教育に寄与していないとする世論調査結果もあり、改革への試みが続けられている。
※この「信濃教育」の解説は、「信濃教育会」の解説の一部です。
「信濃教育」を含む「信濃教育会」の記事については、「信濃教育会」の概要を参照ください。
- 信濃教育のページへのリンク