作曲家たちとの関わり
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「ウラディーミル・スターソフ」の記事における「作曲家たちとの関わり」の解説
スターソフは、後にロシア5人組と呼ばれたバラキレフ・グループ(「力強い一団」)を支援したが、中でもムソルグスキーとの交流が深く、オペラ『ホヴァーンシチナ』の制作を勧めて援助したほか、ムソルグスキーの連作歌曲『子供部屋』や最後の歌曲集『死の歌と踊り』を名付けたのはスターソフである。1878年には、森林局から解雇されそうになったムソルグスキーのために、国家管理庁臨時監査委員会への配置換えを働きかけて実現させるなど、ムソルグスキーを終生励ました。ムソルグスキーもこれに応えて組曲『展覧会の絵』や『ホヴァーンシチナ』など自作7曲をスターソフに献呈している。 しかし、1872年からムソルグスキーと貴族的な唯美主義・主観主義の詩人アルセニイ・ゴレニシチェフ=クトゥーゾフとの交流が始まると、スターソフは「力強い一団」の美学への背信行為だとしてこれを責めた。また、『ホヴァーンシチナ』の主な登場人物がすべて貴族であることに対し、ムソルグスキーがスターソフの人民主義(ナロードニキ)的理想から離反したと不満を漏らし、オペラ『ソロチンツィの定期市』に対しても「くだらない」と評するなど、ムソルグスキー晩年の作風変化について評価せず、創作力の衰えとして見なした。ムソルグスキーの死後、スターソフは彼の評伝を書いたが、ここでスターソフは自身の理想に従ってムソルグスキーを人民主義者として描いた。 ムソルグスキーに次いで交流が深かったのはボロディンで、スターソフはオペラ『イーゴリ公』の制作をボロディンに勧め、台本も手がけた。ボロディンの交響曲第2番を『勇士』と命名したのもスターソフである。ボロディンは1870年、自作の歌曲『海』をスターソフに献呈している。 このほか、1872年12月、チャイコフスキーに対して管弦楽曲『テンペスト』(作品18)の標題を提案し、チャイコフスキーは完成したこの作品をスターソフに献呈した。1897年には、リムスキー=コルサコフのオペラ『サトコ』の台本に協力している。
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