伝道者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 01:32 UTC 版)
弘前教会の牧師中田久吉より伝道者になることを勧められ、1886年よりメソジスト教会の講壇に立った。1887年(明治20年)、珍田捨己の後を継いで、黒石教会の牧師になった。1891年(明治24年)、東京で牧師按手礼を受け、五所川原で伝道することになった。 翌年もともと病身であった妻は2人の幼い娘を残して世を去った。五所川原ではキリスト教徒の葬儀は初めてのことで、寺は墓地に葬ることを拒否した。そのため警察沙汰にまでなったが、本多の親戚川越又八郎が奔走してくれ葬儀ができた。週に二日路傍伝道し、日曜学校を開き、12キロ離れた村にも伝道所を設けて通った。2年後五所川原に会堂を建設するところまで至った。また人から勧められて川越又八郎の長女テイと結ばれた。この結婚で匡は本多と親類になった。 1894年(明治27年)、再び黒石に戻って伝道することとなり、秋田雨雀、鳴海浦春といった進歩的で有能な青年たちが集まった。教勢は上がったが、1899年(明治32年)から故郷藤崎に赴任することとなった。キリスト教に対する偏見が強く路傍伝道すると罵られ、説教は妨害された。 1907年(明治40年)4月、日本最初の国際会議、万国青年会が開催され、日本側の責任者が本多だった。匡も上京してこの大会に出席し、J・B・モットーや救世軍創始者ウィリアム・ブースに会うことができた。 1910年(明治43年)、秋田の能代の開拓に行くようにされた。匡がいなくなった藤崎教会では、佐藤勝三郎と長谷川誠三とが対立し、長谷川と十数人の会員が他の教派に移り分裂したが、長谷川の息子三郎は匡を慕い時間があると能代を訪問した。この頃点字聖書ができたので、それを愛用し、毎朝正座して読んだ。 弘前、黒石、藤崎、五所川原、青森、能代、秋田の諸教会を牧会した。中田久吉の弟の中田重治(後の日本ホーリネス教会監督)が手伝いをした。
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