伝承や後世史料にみえる上泉伊勢守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:32 UTC 版)
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上野国は赤城山麓の川原浜(上野国勢多郡川原浜。現在の群馬県前橋市河原浜町、明治22年の勢多郡大胡村河原浜、明治初期の南勢多郡河原浜村)に所在した大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ、大胡城の西南2里に位置した桂萱郷上泉村(現・前橋市上泉町内)に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流・神道流・念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して」新陰流を大成した。 信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。 嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える。 剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。一方子孫と伝える上泉氏も独自の家伝を持っている(後述)。
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