伏見銀座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 10:05 UTC 版)
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、日本国内の覇権を意識し、慶長6年5月(1601年)、京都伏見の伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、堺の両替商、湯浅作兵衛に命じて取り仕切らせ、頭役には、摂津国住吉郡平野郷(大阪市平野区)の豪商の末吉氏の末吉利方 (平野(末吉)勘兵衛利方) と子の末吉吉康(吉安)(末吉孫左衛門吉康)や同族の平野藤次郎、平野九右衛門らがなる。 極印方の湯浅作兵衛は徳川家より大黒常是(だいこくじょうぜ)という姓名を与えられ、これ以降大黒常是家は鋳造された銀貨に、「宝」の字と大黒天の他に「常是」の略号を刻印し、銀貨の極印・包装を担当した。このため、銀座で出された銀貨の包みを常是包と呼んだ。鋳造貨幣は百分中銀80、銅20であった。 大黒常是および銀座人らは町屋敷四町を拝領して両替町と称し、銀座会所と座人の家宅と常是吹所が建てられた。この各地銀座所在地に付けられた両替町という名称は諸国の銀山より産出される灰吹銀を、銀座が公鋳の丁銀を以って買い入れることを南鐐替(なんりょうがえ)と称したことに由来し、銀座人らは一種の両替商でもあった。 慶長13年(1608年)に伏見銀座の貨幣鋳造機能は京都両替町に全て移された。廃止までに総額120万貫が鋳造された。
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