他の指揮活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 23:36 UTC 版)
マンスは1901年に引退するまで音楽監督の職を務める傍ら、外部での活動も引き受けるようになった。1883年からは水晶宮での3年ごとのヘンデル音楽祭でもタクトを振った。1883年の音楽祭は創始者の指揮者マイケル・コスタが不調だということで、数時間前に告げられて引き受けた仕事だった。マンスは当初合唱指揮者としては管弦楽指揮者として収めた程の成功はできないと考えられていた。というのも、彼の指揮姿は風変わりで慣れない者ではついていけなかったからである。にもかかわらず、彼は以降1900年までこの音楽祭に毎回招待されることになった。彼はグラスゴーの合唱組合の管弦楽演奏会でも13シーズン連続で指揮を行った。1859年にはドルリー・レーンのシアター・ロイヤル(Theatre Royal)で行われたプロムナード・コンサートの指揮台に上がり、1896年から1899年にはシェフィールドの、1896年にはカーディフの音楽祭でも指揮している。 1890年以降、水晶宮での演奏会は次第に重要性を失っていった。ロンドンではどこに行ってもオーケストラの演奏が聴けるようになっており、水晶宮の古くからの人気は風前の灯だった。マンスは1900年から1901年のシーズンまで指揮を続け、4月24日に活動に終止符を打った。「ミュージカル・タイムズ」紙の試算では、彼が42年の在任中に開催したオーケストラ・コンサートは12,000回にのぼるとみられている。
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