交通手段の確立と繊維産業の興り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 02:18 UTC 版)
「ユーティカ (ニューヨーク州)」の記事における「交通手段の確立と繊維産業の興り」の解説
19世紀前半にハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が開通すると、その流路上にあったユーティカでは産業が発展した。運河全体の中でも中間部の開通は最も早く、1819年にロームとユーティカの間が、その翌年にはロームから西、シラキュース郊外のサリナまでが開通した。1825年にはエリー運河が全通した。運河を行き交う旅行者にとって事実上の中間点であったユーティカは、旅行者が旅の疲れを癒すのにちょうど良い場所であった。その後ユーティカの名を轟かせることになる綿織物産業は運河の計画段階から興りつつあった、また、ユーティカの不動産需要は高まり、地価は1800年時点の10倍に跳ね上がった。ある匿名の旅行者は1829年頃、ユーティカについて次のように述べた。 a really beautiful place . . . [and Utica's State Street] in no respect inferior to [Broadway] in New York. (訳)とても美しい場所...(そしてユーティカのステート通りは)いかなる点においてもニューヨーク(のブロードウェイ)に劣らない。 ユーティカはエリー運河が町の中を直に流れていることによって、シラキュースなど他の新興の町と同様に恩恵を受けた。1836年にはこのエリー運河に加えて、ユーティカとサスケハナ川河畔のビンガムトンを結ぶチェナンゴ運河が開通し、この地の織物工場で燃料として用いられる石炭がペンシルベニア州北東部から運ばれるようになった。 運河に引き続いて、鉄道の整備も進んだ。1836年には、オールバニ・スケネクタディとユーティカを結ぶ鉄道が開通した。その3年後には、ユーティカから西へシラキュースまで鉄道が延伸された。1870年には、ビンガムトンとユーティカを結ぶデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道のユーティカ支線が営業運行を始め、ペンシルベニア州産の石炭を運び込むようになった。 19世紀中盤に入ると、ユーティカの繊維産業は高い成長を遂げていった。20世紀に入る頃には繊維産業は隆盛を迎え、ユーティカは数十もの織物工場が建ち並ぶ、全米でも有数の織物の街としての地位を確立した。第一次世界大戦中には、ユーティカの織物工場は20,000人にものぼる労働者を雇用した。
※この「交通手段の確立と繊維産業の興り」の解説は、「ユーティカ (ニューヨーク州)」の解説の一部です。
「交通手段の確立と繊維産業の興り」を含む「ユーティカ (ニューヨーク州)」の記事については、「ユーティカ (ニューヨーク州)」の概要を参照ください。
- 交通手段の確立と繊維産業の興りのページへのリンク