井伊家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:06 UTC 版)
その後、幕府領を経て、1705年(宝永2年)に井伊直矩が2万石で封じられた。直矩は近江彦根藩井伊家(掃部頭家)から分家の直勝系井伊家(兵部少輔家)へ養子入りしたが、養父の直朝が精神疾患を理由に遠江掛川藩を改易となった後、名門井伊家への特別の計らいにより、減移封の上で直矩の相続による家名存続が許されたという事情があった。以後、与板藩は廃藩置県まで井伊家の藩主で存続した。 兵部少輔家は掛川時代には城主大名であったのが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。1804年(文化元年)、6代直朗は若年寄(就任:1781年 - 1812年)としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。なお、最後の藩主・直安も掃部頭家からの養子で、大老・井伊直弼の四男である。東京都世田谷区の豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画は、実子である直安が、後年記憶を頼りに描いたものである。
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