五代目豊澤源吉を襲名
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明治12年(1879年)3月大江橋北詰席にて、豊澤九市改め五代目豊澤源吉を襲名。弱冠二十歳であった。この頃、巡業先(長崎)にて行き違いから春子太夫と衝突を起こし、春子太夫と別れる。源吉は、春子太夫より格上の太夫を弾いて春子太夫の鼻柱を挫いてやりたいとの一心で、京町堀千秋橋の近所に借宅をし、昼は靱の連中や北新地で出稽古、夜は清水町の團平師匠の家で稽古を受けに行くという日々を過ごし、あまりの忙しさに二十日あまりも入浴せず、虱がわき、異臭をはなったが、それに構わず一心不乱に芸道に励み、明治17年(1884年)3月、その年に開場した彦六座にて、『八陣守護城』「毒酒の段 切」で六代目竹本組太夫を弾くことになった。この組太夫について「組太夫といふ人は音聲の大きい腹の強い人で、私は腕によりをかけて力競べを致し遂々弾き勝ちますと先方も一生懸命で其次興行の『本朝廿四孝』の「勘助住家」の時には私が負けて肋膜炎にかかつた時は随分重患で加之(おまけ)に生計上(くらしむき)が困難になつて丁度三年間程芝居へも出勤せず商業に手を出したり稽古屋をしたりして(いた)」と語っている。このように病気で芝居を休んでいたが、明治20年(1887年)に師匠團平が大隅太夫、源太夫、朝太夫を伴い東京へ巡業をすることになりに伴い、朝太夫を弾き舞台復帰した。三年後に帰阪。
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