世界選手権125ccクラス
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「アンヘル・ニエト・ジュニア」の記事における「世界選手権125ccクラス」の解説
1995年のロードレース世界選手権第10戦ブルノで、マルチネス率いるアスパー・チームのセカンドライダーとして世界デビューを果たした。翌1996年にはGPと並行して参戦したヨーロッパ選手権でシリーズ4位の成績を残した。 1997年にはGPにフル参戦し初ポイントを獲得。1998年には父アンヘルの Via Digital チームに移籍しエミリオ・アルサモラのチームメイトを務めた。この年は41ポイントを獲得しシリーズランキング19位に入った。 1999年にチームはマシンをそれまでのアプリリアからホンダにスイッチした。このシーズンはチームメイトのアルサモラが活躍してチャンピオンを争っていたが、シーズン終盤となった第13戦フィリップアイランド、残り数周となった時にアルサモラは日本の上田昇と絡んで転倒してしまい、復帰したもののポイント圏外の16位まで落ちてしまう。その時15位を走っていたのはヘレテだった。父ニエト監督はピットサインボードをつかんで大騒ぎし、アルサモラに順位を譲るよう、息子に指示を送った。ヘレテはフィニッシュラインぎりぎりで停止し、15位を譲られたアルサモラは1ポイントを獲得することができた。そして最終戦で、アルサモラはまさにこの1ポイント差で逃げ切り、ワールドチャンピオンに輝いた。ヘレテのチームプレイがなければ、同ポイントに並び、勝利数で上回るマルコ・メランドリがチャンピオンになっていただろう。重要な役割を果たしたヘレテだったが、自身の成績はシリーズランキング22位に終わった。 2000年は57ポイントを獲得しシリーズ15位、これがヘレテのGPでのベストシーズンとなった。2001年は56ポイントでシリーズ16位、このシーズン限りでヘレテはGPを去ることになった。
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世界選手権125ccクラス
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「パブロ・ニエト」の記事における「世界選手権125ccクラス」の解説
1998年にはロードレース世界選手権第12戦カタルニアで、兄ヘレテの所属するチームから125ccクラスのレースにワイルドカード枠でGPデビューを果たした。 翌1999年からはデルビ・チームからGPフル参戦を開始し、エースライダーの宇井陽一のチームメイトとして3シーズンを戦った。このチームでは2000年に68ポイントを獲得しシリーズ13位に入ったのがベストシーズンとなった。 2002年にはホルヘ・マルチネス率いるアスパー・チームに移籍。アプリリアのワークスマシンを駆って初表彰台・初ポールポジションを獲得し、シリーズ6位に入る活躍を見せた。2003年には第11戦エストリルで初優勝、他にも2度表彰台に立つ活躍を見せ、ポイントは前年より多く獲得したものの、シリーズランキングは1つ落として7位となった。アスパー・チーム最後のシーズンとなった2004年は表彰台2回の獲得でシリーズ6位となった。 2005年にはデルビに復帰したが、マシンの競争力不足でシリーズ13位に終わる。2006年からは Multimedia Racing チームに移籍し、再びアプリリアを駆ったが、今回はプライベーター仕様のマシンだったこともあり、ランキングはまたも13位に終わった。 フル参戦10年目となった2008年、パブロは125ccクラスの年齢制限の28歳に到達することもあり、この年が現役最後のシーズンとなった。父アンヘル、兄ヘレテと共に立ち上げた新チーム「オンデ2000」のライダーとしてKTMのマシンを駆ったが、シリーズ21位で最後のシーズンを終えることになった。
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