不時着まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:55 UTC 版)
「大日本航空阿蘇号不時着事故」の記事における「不時着まで」の解説
1940年2月5日、大日本航空のDC-2型旅客機阿蘇号(双発レシプロ機)は、福岡から沖縄県の那覇を経由し台湾の台北に向かう下り便として、福岡を午前10時59分に出発した。那覇には午後2時50分に到着し、午後3時すぎに台北に向け離陸した。阿蘇号には乗員4人(操縦士(黒岩利雄)、航空士、機関士、通信士)と乗客9人が搭乗しており、貨物として郵便物260Kgが搭載されていた。 台湾に向け、東シナ海上空を飛行していたが、後15分飛行すれば尖閣諸島の魚釣島上空に達する地点で突如右エンジンがトラブルを起こした。残された片方のエンジンでなんとしても台北にたどり着くために、乗員は機体重量を軽くしようと荷物の一部を機体から落としたが、高度が徐々に下がり始めてしまった。そのうえ冬のため台湾にたどり着いたとしても日没後に危険な不時着を決行しなければならなくなるため、操縦士は至近の無人島である魚釣島への不時着を決意した。通信士は午後4時55分に台北無電局に「魚釣島に不時着する」と伝えた。 魚釣島上空に達した阿蘇号は不時着する地点を探すために島を一周していたが、高度が100mに下がったため島の北海岸の岩と岩の間に午後5時5分に不時着した。
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