不慮の事故死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 05:14 UTC 版)
華北方面では10月頃になると、日本陸軍飛行第1大隊のほか、新たに飛行第2大隊(大隊長:加藤建夫大尉、九五式戦闘機装備)が現れ戦闘に加わった。劉はこの新たな相手と戦うため、華北の太原方面(山西省)へ増援派遣されることになった。10月26日、劉は僚機4機と共に南京大校場飛行場を出発、漢口の王家墩飛行場での昼食、洛陽での給油を経由して太原へ向かった。 劉は黄河以北の飛行経験が無かったが、誘導なしで飛行を続けた。しかしその途中で日没となり、ホークⅢ5機は離れ離れとなってしまった。燃料の欠乏した劉は、闇のなかで飛行場を探すうちに高平県城の上空に飛来した。その音を連絡機と錯覚した町長は三階建ての楼閣「魁星楼」の傍で火をたいた。しかし火を目印に降下してきた劉は暗闇の中の魁星楼に気づかず衝突、死亡した。享年24。死後少校に特進した。 劉粋剛の遺体は高平県で丁重に荼毘に付された。同年11月16日に南京へ移され、後に紫金山北麓の航空烈士公墓に葬られた。 のち、昆明の空軍子弟学校は「粋剛小学」と名付けられ、許希麟が校長を、徐鶴林上尉が政治部主任を務めた。
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