上臈御年寄とは? わかりやすく解説

上臈御年寄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:53 UTC 版)

上臈御年寄(じょうろうおとしより)は、江戸時代大奥女中の役職名。単に上臈と称されることもある。将軍御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位。京都の公家出身であるが、生家の名前とは関係なく、姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いでいった。


  1. ^ 将軍付上臈御年寄も元は御台所付であったこともある。14代家茂時代後期の将軍付上臈御年寄・錦小路は、元は正室和宮付であったと考えられる。


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上臈御年寄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 15:44 UTC 版)

徳川家茂付き大奥女中」の記事における「上臈御年寄」の解説

万里小路までのこうじ詳細は「万里小路局」を参照 飛鳥井あすかい1818年 - 1888年)は、幕末江戸幕府大奥女中平松時門娘。宿元三枝靭負。徳川家定世子時代から上臈御年寄として西の丸仕え嘉永6年1853年家定将軍となる本丸に移る。安政5年1858年家定没すると、継いで将軍となった家茂付きの上御年寄筆頭となった文久3年1863年11月隠居慶応2年1866年家茂没する出家した花園はなぞの生没年不詳)は、幕末江戸幕府大奥女中宿元本多主殿正。 出身京都。上臈御年寄は公家の娘を出自とすることが多いので、花園も同様と思われる文久2年1862年14代将徳川家茂正室として下降した和宮に従って江戸城入り家茂の上御年寄勤めた文久3年1863年)他の大奥女中とともに大奥解雇され京都戻った

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